ドライバーの勘は概ね当たっていた。
国道6号を30分も走ると、
巨大な積乱雲が視界を覆い始めた。この時のスコールほど感動したことは無い。
シェムリアップ平原の地平線遥かから、猛スピードで、大地を蹂躙する雨粒の足音と共に、 巨大な雨のカーテンが迫ってくるのだ。トゥクトゥクと雨壁が交差した瞬間、 冷気と雷音と突風と大量のシャワーが混ざり合う。 |
ドライバーは降車し、いそいそと幌を張ってくれた。 天井幌でなく、側面用の幌だ。それでも自然の脅威なのだろう、 暴風雨は横殴りに客室のドアを叩き、無作法なほどに内部に 侵入してくる。 暫時、打擲する雨粒の洗礼に耐え抜いていると、 ほんの10分程度で凶暴なカーテンは開かれ、穏やかな太陽光が出迎えてくれる。 豪雨が 蹂躙した後の大地には、水溜まりが彼方此方に形成され、車輪の回転を遅くするのだった。 |
バンブー・ケーキ昼の時間を圧してベンメリアに移動をしていた。 しかも、雨のおかげで 若干のタイムロスもあるのだろう。また、付近は観光客用の洒落たレストラン など存在しない地域だ。ドライバーは気遣いで、後を振り向き柵越しに 私に言った。『お前、腹減ってない?』 返事する間もなく、 トゥクトゥクは通過の小街で路肩に横付けされた。降車した男は、急ぎ足で 大通りを渡り、屋台で何やら 竹の筒を買って戻ってきた。 『Bamboo cake だ』 「ばんぶ~け~き?何どすか、ソリは?」 『ライス、ココナッツ、スパイスを混ぜて蒸したもんだな』 「ほう」 |
これは、かなり美味しい。日本でいう赤飯のような味だった。 最外部の竹を剥いて、上部のコルク栓の様な竹葉を抜く。すると、綺麗な円柱状の ライスが出現するのだ。採食時に箸の必要なく、簡単に持ち運べるので 一般的にカンボジアでは流通しているようだ。竹筒の成長に合わせ 、大小様々な大きさタイプが発売されているのが面白い。 私事、連日の魚貝類の料理で 腹の具合が悪かったが、この バンブー・ケーキでかなり体調が良くなった憶えがある。 『どうだい?』 「ムシャムシャ、うまいね!」 ベンメリアベンメリアは未だに草木に埋もれた遺跡で、発掘調査もまだほとんど進んでいない。 この為、原始のアンコールが現代に成り立っているとして観光客には大変な人気がある。 創建は11世紀~12世紀初頭と見られている。周囲には環濠が囲い、今も水を湛えている。正面向かって 左には蓮の葉が一面に生い茂り、右は帆船が浮かんでおり、生の住民の生活が そこにある。その内部の敷地構成は、 アンコールワットに類似する点が多く、「東のアンコールワット」とも呼称されている史跡だ。 |
マクロ的な地理条件からいうと、アンコールワットとベンメリア、そして 更に東方向にプリア・カンがあり、これらは一直線上に在る。流通の中継地点として、この街は 栄えた背景を持つ。 |
入場にはアンコールチケットは通用しないので、新規の見学料金 が必要になる。入口を進むと、門前からナーガの欄干がお出迎えだ。 ベンメリアの魅力の一つは、ナーガ像が多いことだ。 <ナーガ> 古くはインドの先住民から崇拝されてきた蛇神で、人の顔とコブラの首、 蛇の尾を持つ半身半獣の容姿をしている。雨や水の結びつきが多く、海や湖の守護神 として崇められてきた。カンボジアだけでなく、東南アジア全域で信仰されている。 通常は5本の頭だが、スピアン・プラップトゥフの欄干は9頭ナーガが、 アンコールトムの癩王のテラス内壁にも9頭ナーガが、存在する。 |
正確な長方形と、3重の回廊、最中央部に向かう通路には 十字回廊が配置されている。構成はアンコールワットに非常に似ている が、壁面の彫刻やデバター像はほとんど存在しない。見学のための 木橋が整備されているが、周囲に見える景色と言えば崩壊した巨石と、暴力的に 成長した木の根ばかりだ。 |
経蔵の崩壊は一段と激しい。崩壊石によって堰き止められた雨水が 、結果、島の様な 様相に変化されている。木橋等は無く、内部への入場は叶わないようだ。 屋根には巨木が聳えている。 どこからもなく、少年の声が聞こえた。 『ポルポト、ダイナマイト、』 |
成るほど、純粋に風化だけによる遺跡の崩壊ではなく、 ポルポト軍の破壊工作という急速度の崩壊を加味する一面もあるわけだ。 『こっちへ来て!お兄ちゃんをボクの秘密基地へ連れてってあげる』 付近に住んでいる少年らしい。私を勝手に案内し始める。 木橋の手摺を飛び越えたテラスの屋根に誘導し、危なっかしい足つきで、崩壊した 石積をよじ登る。面倒臭いので、無視して引き返すと私の前に廻り込み、 両手を重ねて目の前に差す出す、 おねだりポーズだ。地方遺跡には、アプサラの正規職員以外に子供がガイド紛いのことをして、 賃金を要求することがよくある。 「ガイド料か・・・しょうがないな。ホレっ」 1$紙幣を、そろりと渡す。これで、駄菓子でも買え。 すると、金額に不服なのか烈火の如く詰め寄って来る少年。 もっとよこせ。少ないよ、にーちゃん。 『ファイブダーラー!』 「やかましい、失せろ小僧」 |
改めて、一人で1周を見学してみた。第三回廊は、180×150m あり、その外側の環濠を含めた総括された周囲距離は4,2kmにのぼる。歩いて廻ると かなり時間が掛かる 規模の寺院だ。 正確な完成年は不明であるが、アンコールワット以前に造られたという経緯から、 あの名高いアンコールワットが本遺跡の配置や構成を踏襲した事実はあるだろう。 この旅で、究極のナーガ好きになってしまった私であるが、 東に乱雑に放置されたナーガの欄干が散在している地区があるとのことを知っていた。 実のところは、これが本日の 目的だった。 ガイド本によれば、 アンコールワット一連の遺跡群の中で、一番保存状態の良い個体があるのが、 このベンメリア東地区であり、量も多いのだそうだ。 早速に急行してみた。 |
状態の良い個体は4体ほど。 さらに、周囲に割れたり部分欠損したナーガが大量に放置されている。 ここぞとばかりに、片っ端から、そして 敷地以外にあった崩壊個体まで、 しつこく時間を掛けて激写してやった。パシャッ!パシャッ!イイヨーイイヨーキレイダヨー 夢中になった時の人間の行動は 、無意識に思わぬ危険を招く。 『危ないヨー、ジライ、ジライ』 突然、私でも聞き取れる現地民が喋る 日本語が響いた。 付近は 、地元の住民の抜け道になっているらしく、時折、細い土道から簡素な布を巻いた 女性が 往来している姿を確認していた 。そんな中の一人の女性が、心配そうに私に向かって声をかけてきたのだ。 |
「うるさい、放っとけ」 先ほどの小僧が恩着せがましいガイド風情の、小銭要求をしたばかりで、 この女性も注意喚起を理由に有料ガイドへの誘導行為かと思い、軽く 聞き流す程度の認識であったが、突然、はたっと気付いたのだ。 ポルポトの武器重機による破壊工作という要因が、このベンメリア遺跡の 崩れた景観の成立ちの 一つでもあるという事実を。 周囲には、未だ回収しきれない 地雷があるという。 チョッと離れた場所や、木々に埋もれた庭先にも 、まだまだ未知の危険が潜んでいる可能性があるのだ。彼等の好意を斜に構えてはならない! 観光地と言えど、そこはまだ危険と隣り合わせでもあるのだ。 郷に入っては郷に従わねば、と深く反省し、戒めを心に刻み、 日が暮れるのを機にその場を離れることにした。 |
駐車場に戻り、シェムリアップ市に向けて出発した。片道2時間近く かかるが、ナーガ好きには大満足できる遺跡だろう。 |