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癩王のテラス三島がカンボジアを訪れたのは1965年であったという。 高さ6mにも及ぶ壁面彫刻を目の前には、さぞ圧倒されたことだろう。東側に向いたコの字 型に外側壁(1辺は25m)があり神々の彫刻が刻んであり、これに 準える形で一回り小さい内壁がある。脇に 狭い入口があり、その細い路地から内壁入場が可能になっている。 |
内壁通路には 板橋を架けてあるが、雨季は水没する事が多いのでサンダルが必要になる事がある。 二重構造の経緯は、当初は内壁の上の敷地に寺院が建っていたが、 重みでリリーフを含めた壁が崩落してしまった。そこで、後年に1回り大きくラテライト壁で 補強し、表面に砂岩のリリーフを再度彫ったをいうことらしい。 |
阿修羅のリリーフと共に内壁で有名なのが、9頭の頭を持つナーガ像だ。 |
癩で死んだとされるジャヤヴァルマン七世は、積極的に寺院を創建した人物として 知られている。その担った寺院建築数の多さから「建寺王」と賞されている。 行軍と病魔に喘ぐ彼の苦悩は、バイヨン第二回廊の東面に描かれている。 ワット完成後の1177年に チャンパ軍に襲われたという歴史の経緯から、戦乱の虚しさを憂いてアンコールトム 都城を築きはじめる。それは内部の既存ヒンドゥー 寺院を破棄する事なくそのまま残し、更に仏教寺院を多数新築し共存させ、争いの無い 理想の平和国家を創立し、以降の時代も千年王国として存続させようという 彼なり王としての意図があった。 |
象のテラスアンコールトム都城の東門「勝利の門」に続く正面に当たるのが、 この「象のテラス」だ。 長い石壁に象のリリーフが建築してある。3本の鼻を垂らした石積構造が 設置されて、観光客にとっては絶好の 写真撮影のシャッターポイントになっている。北に向かえば癩王のテラスへ、南に向かえば バイヨンに繋がる大道路の中央点だ。 |
また、王宮の表玄関に位置し、 象に跨った兵士が勝利の門から帰還し、戦勝報告したり謁見したりするオフィシャルな広場 の前にあった。 東側の1段下がった平地は非常に広くなっており、その昔は、段上から王が 軍のパレードや指揮を命じたであろうことが判る。 ここも、ジャヤヴァルマン七世の創建である。 |
ピミアナカス象のテラスの高台をそのまま西に進むと、王宮の敷地になる。 歴代の王達の生活の場として使用され、一般人の立ち入りは禁止されていた。 敷地全体で600×250mの広さがあり、周囲は環濠が廻っていた。 日常の生活を送る住居母屋は木製で造られたため、後年、破壊されて現在は 跡は残っていない。 |
ピミアナカスは、その敷地内中央に位置するピラミッドで、王専用の儀式祭壇である。 空中楼閣と呼ばれ、 バプオーンと構成が似ている。四隅に象の石像が配置してあるのが特徴だ。 |
ヒンドゥーが母体となっている史跡で、ジャシャヴァルマン五世が10世紀末 ころに創建した。 完成当時は 最上段の楼閣は金箔で覆われ、 後、13世紀に入ってアンコールワットを 訪問した周達観はピミアナカスの事を「黄金の塔」として中国に伝達している。 登壇には裏から階段が出ている。東から入場の際は半周分を廻り込むといい。 |
プリア・パリライ |
煙突状の特徴ある祠堂と3本の巨木が印象的な史跡だ。12世紀の創建で、 宗教の母体は仏教である。祠堂内部の崩落が激しい。 |
ニコニコしながら 近所の子供が近寄ってきたりする。 |
テップ・プラナムプリア・パリライの直ぐ脇は、テップ・プラナムとい寺院があり中央台座には 巨大石像が安置されている。上座仏教由来の大仏で、近所の 信者が熱心に拝んでいる姿を見かける。年代として15世紀に入って造られたものだ。 |
プラサット・スゥル・プラット象のテラスの反対側の東広場に、並ぶように12本建っている。創建はバイヨン付近一帯と同じく ジャヤヴァルマン七世によるものである。「綱渡りの塔」という異名をとり、王宮前の広場で 塔の先端を綱で結び人が伝う 余興を催したとの伝承もある。また、建物の用途については 裁判の為の施設という説もある。勝利の門に向かって 南北対称に 並んだ配置から、真意のはっきりしない2人の罪状認否に使用した。2人を 其々、別方位に入塔させると、嘘をついて いた方の体調だけが悪くなったという。この遺跡の 修復は、日本チームが現在担当している。 |
アンコールトムは 内部が広いので、半日くらいでは 全てを廻りきれない。交通上、小回り大回りコースの通過点になるので、3日券または7日券 チケットを 購入していればフリーで何回でも入場できるので、日を分けて少しづつ見て廻るのがいいだろう。 |