生きてる事が功名か

national military museum 撮影許可証


軍事博物館

   そのまま、東に200〜300m進むと軍事博物館がある。共通入場券 で内部入場は可能だが、写真撮影には別途1£で許可証が必要。ここでは、アラビアの 中世〜近代までの変遷と そのゆかりの物品、資料が陳列されている。ほぼ1本道の見学順で、1つ1つの 歴史と、それに纏わる資料を全て咀嚼して観て廻れば、1日あっても足りない だろうという展示量だ。



national military museum national military museum



   メディナ聖遷の10年で着々と アラビア地方で勢力を拡大していたイスラム教であったが、その年632年、 預言者ムハンマドが逝去すると大混乱に 陥った。各地で教団に対する蜂起が起こり、 直ぐにメディナに於いてカリフが選出され、初代アブーバルク、二代目オマル、と共に その再興に勤めることになる。 かくして教団は各地にムスリム軍団を送り、短期間で ほぼアラビア地方全土に、再びその帰依を成功させた。


   644年にオマルが暗殺されると、ウスマンに三代目の カリフの位が移った。大勢力に至った教団が征服地に軍事都市 を築くが、その地では、クライシュ族同士による中央との大きな軋轢が生じていく。 現在のカイロ旧市街に位置する、フスタートは641年に教団が 陥落させ、軍事都市(アムサール)として 機能させていたが、656年、その権力闘争がメディナ襲撃という形として変化する ことになる。フスタートに居た彼等 はメディナのカリフ住居を襲撃し、ウスマンを殺害する。


   その後、四代目にアリが推されるが、その系統を 同じくしていたがクライシュ族の分家にあたる ウマイヤ家のムアーウィアが、これに反旗を挙げる。結局、アリは661年に ムアーウィヤとの戦いの最中に暗殺され、 教団の権力はウマイヤ家の手中に収まることになる。


   ムアーウィアは直ぐにシリアのダマスカスに遷都を宣言、 その勢力を可能な限りに延していった。西方はエジプトより、北アフリカの モロッコ、その後は海峡を越えてスペインからフランス国境まで迫る。 東方はインダス河境界というのでインドの国境付近まで拡大したことになる。 この初のイスラム大帝国は、その王朝名を冠しウマイヤ朝と呼ばれている。



   ムハンマドから四代続く正統なカリフの血統 というものは、アラブ界において 思いのほか強く影響している。この血統性を を支持しているシーア派は メソポタミア北部、いわゆるイラン地方一帯に波及した。
   シーア派は少数派なれど、 未だアリの血統に敬意と、指導者としての資格は極めて近い故縁にあるべきだと主張し、 教義自体が、これを長らく厳格に定めているに至る。 この対立はしばし複雑な要素が絡み 合って成立しているとされている、中東紛争という事象 の火種の1つに成り得ているとも云える。



national military museum national military museum 大砲 廊下 天井


軍事博物館  シタデル   Cairo CITADEL national military museum




サラーフ・アッ・ディーン

   十字軍が聖地奪還を名目に、その勢力を拡大していった時代、 12世紀後期にその脅威に対抗したのが、イスラム界における大英雄サラディンこと、 サラーフ・アッ・ディーンで、このシタデルを創建した人物でもある。


   当時のエジプトはシーア派の流れを汲むイスマイール派が 興した、ファーティマー朝が支配していた。サラディン自体は現イラクの タクリートという都市で生まれスンニ派の支持者である。 彼の父親アイユーブが仕えていたのがザンギー朝で、そのザンギーの息子 マフムードにエジプト遠征を命じられる。計3回に渡り、アイユーブ、サラディン、 更には叔父シルクーフと共にこれを行っている。


   この叔父のシルクーフはエジプトでは宰相にまで上りつめたが、 程なくして没してしまう。その後継が31歳のサラディンで、 1171年に自ら国内のファーティマー朝を廃し、すなわちスンニ派のアイユーブ朝 を興す。さらに、1174年マフムードが没した事の機に乗じ、 シリア地方もその支配を掌握し、後エジプト・シリアを併合させる。 この勢力は、彼のカリスマも相まってイスラムに大いなる結束を促し、 結局、ハッティンの戦いを経て、晴れて88年の長き占領から エルサレムの奪還に成功するに至るのだ。


   サラディンはエルサレム占領をすると、兵達に キリスト教徒の虐殺や迫害を戒めるよう布き、軍はよく統率されていたという。 くだんの逸話が、彼をアラブの英雄たる人物評として伝えるものに 一役買っているといえるだろう。  



national military museum national military museum national military museum national military museum national military museum national military museum national military museum national military museum



中東戦争

   1948年、イギリスの統治が終了しパレスチナ にイスラエル建国が なされる。この時、領地の国連分割案が、ユダヤ人とアラブ人の構成比率に倣って させた内容では全くなかった事が初端だった。 また、根本的に土着のユダヤ人はシオニズム前 は、建国時の1/10程度しかいなかった事もその不満の材料で あるといえた。この不当性にアラブ諸国は 猛反発。エジプトもこれに参戦し、第一次中東戦争が勃発する。


   当初は兵士数に勝るアラブ諸国が優勢であったが、アラブ連合側は 次第に統率が崩れ、情勢はイスラエル側に傾いていく。翌年、停戦協定が 可決されたが、そのイスラエル占有領土は以前の国連分割案よりも大きく上回り、 事実上のアラブ連合の敗戦、という側面を示すものであった。
   この戦争に参戦し、「大いなる屈辱」と声明しアラブの ナショナリズムを鼓舞したのが、 後のエジプト大統領にもなるガマール・アブドゥル・ナセルだ。


   1956年、スエズ運河の国有化をめぐり 東部シナイ半島を舞台にエジプト軍とイスラエル軍の間で軍事衝突、 第二次中東戦争が起きる。軍事クーデターを起こしていた ナセルは52年のエジプト革命を経て、この56年に大統領に就任している。


    スエズ運河はその航路の利便性から、欧州諸国にとって奪取させざる思惑の 利権だった。よって、イギリス、フランスがイスラエルを支持し、対エジプト の代理的局面も示しており、スエズ動乱とも呼ばれている。結局は介入による 、国際的な批判世論とエジプト側の粘り強い外交交渉、そして 意外にも米ソ合算の同時圧力が、これを強制終結とした。結果的に領土拡大は 無かったものの、スエズ運河の国有化に成功したエジプト側の大勝利といえた。


    1967年は6日戦争と呼ばれる、第三次中東戦争が起こる。この超短期間の電撃戦 はイスラエル側の勝利に終わり、聖地エルサレムから、 さらにガザ地区を越えシナイ半島の全域にまで、その領土を 大きく拡大した。ここに至る戦争の名目とは、実際パレスチナを追われた アラブ難民が、各地でその軍事組織を集体させ、パレスチナ解放機構(PLO) を結成し、彼等が対イスラエルにゲリラ活動していた、その報復 に対するものであるといえた。
   その後も、当地区のシナイ半島は、小さな小競り合いや 武力衝突などの紛争の火種を抱え、エジプト国内でも、 特に国境付近に於いては非常に 治安の悪い地区になっている。外国人観光客が襲撃させる事態も起きているので シナイ地方の観光には注意が必要だ。


   6日戦争の失態でナセル大統領は評は大きく失墜し、 3年後に失意のまま死亡する。後任は副大統領だったサダトである。 サダトは、ナセルの構想としたアラブナショナリズムによる思想踏襲ではなく、 より柔和な国際姿勢を取った。1973年の第四次中東戦争でも、その開戦は イスラエル国家への怨嗟が理由でななく、あくまで第三次中東戦争 で失ったシナイ半島の再奪取であると宣誓している。 また、同時期に起こったオイルショック(その価格は4倍強に跳ね上がったという) により、世界的にアラブの立ち位置と、その存在感を隠喩させた情勢も追い風になり、 その後の停戦協定を経て、最終的に1978年キャンプ・デービッド合意 によってシナイ半島の領地を再びエジプトに戻すことに成功した。


    しかし、このサダト独断の調印は、詰まるところのイスラエルへの歩み寄りに なるものだ。と、国内もとよりアラブ諸国でも猛批判されることになり、 エジプトのアラブ連合からの除名と国交断絶(その後、すぐに回復している) の状態に陥り、彼自身もイスラーム過激派に 81年の軍事パレードの最中に暗殺された。


   のちの大統領は、当時副大統領だったムバラークである。 2011年1月より発生したエジプト騒乱で退陣するまで、サダトの穏健路線を踏襲 し、長期の安定政権を樹立すると共に、エジプト自身の国力や経済発展に大きく貢献 した。ただ、長期期間の政権掌握は親族や息の掛かった者の要権独占に 繋がり、その独裁に不満を募らせた国民により辞任に追い込まれた。





national military museum national military museum national military museum national military museum national military museum national military museum national military museum national military museum


軍事博物館2  シタデル   Cairo CITADEL national military museum




   シタデルの出入り口より、南を望むとムカッタムの丘と呼ばれる 剥き出しの岩場が広がり、その下にサラーフ・サリーム通りが沿っている。 この道を再び南下する進路を取れば、オールドカイロに至る。



ムカッタムの丘 ムカッタムの丘

Rオールドカイロ

トップ