参加者の9割が県外から長崎県にある端島は、戦艦「土佐」に似ていることから 「軍艦島」と呼称され、 平成21年より上陸が可能になりました。上陸ツアー 参加者のほとんどが県外関係者で占められており、その人気の高さが窺えます。 興行する海運会社は島の上陸、また島周囲をクルーズする、その他に長崎港サンセットクルージング など何種類か用意しているようですが、 上陸タイプが一番人気らしく大型連休、休日、夏休み等は予約で一杯になるようです。現在は、(朝)(昼)の2便運行しており、乗船には予約と簡単な誓約書が必要です。誓約書といっても 堅苦しいモノではなく、廃墟を見学する上での最低限常識範疇内の契約事項です。 接岸させる時が一番の安全性を必要とする為か、悪天候や波の高い日は、まれに上陸が 中止になる事もあるようです。その場合は周遊クルージングに変更するようです。 予約や上陸率がHPで見れます。(軍艦島)(軍艦島上陸ツアー)で検索すれば ヒットすると思います。もちろん平日が空いていて狙い目ですが、大型のツアーグループがいきなり 何十人単位でドカッと入る事もあるようなので、なるべく事前計画の日程をしっかり立てて、早めに 予約しておきたいところです。 |
JR長崎駅から、港はすぐ近いので歩いて行けます。10分程度でしょうか。ターミナル
に待合室があり、トイレもありますので事前にしっかり済ませましょう。比較的大型の船なので
船酔いは少ないと思いますが、念の為にエチケット袋なども用意したほうがいいかもしれません。
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船内では、アナウンスで長崎港にある施設や工場の説明をしてくれます。長崎港 を周遊するというだけでも、とても綺麗で景色も良く楽しいですよ。三菱重工の造船所 等があります。ドルフィン桟橋までの接岸を、東航路と呼んでいるようです。 |
高島の大きな風車がみえます。 |
しばらくすると、となりあった2つの島が見えてきます。軍艦島と中ノ島です。 |
中ノ島には島民のお墓があったのだそうです。 |
ドルフィン桟橋です。足場が不安定なので十分気を付けましょう。 |
上陸後に3つの班に分かれます。島内に3つの広場があり、そこで 其々3人の職員が建物の 説明や歴史などを説明してくれます。 規定時間が過ぎると 各班がローテーションで回転していく形になります。 引率する職員の話は非常に面白く、初聞きするような話ばかりでした。 こちらの質問にも快く答えてくれます。 慣れっこなのか、ユーモアを含めた切り返しで即答してくれます。これから 上陸予定がある方なら、う〜ん、と職員を唸らせるような鋭い質問を用意してみては如何でしょうか。 とても感じのよい人達で、カメラを代行撮影してくれたり、気軽に話し掛けてくれたりします。 |
第一見学場からは、端島小中学校の体育館が見えます。創建は1970と、 74年の閉山からすると一番最近に建てられた建物ですが、吹き抜け天井の風化が激いようです。 これは、閉山を見越した根本的に簡素な構造で造った為だといわれています。 端島小、端島中学校は同一母屋で、小中の校歌は同一だったようです。 その脇に巨大な凹字型の、島で一番大きな建物があります。 65棟と呼ばれる集合住宅で、島民5千人のうち 千人を収容できる規模だったようです。屋上に幼稚園がありました。一般に 通常工夫の部屋は、6畳1間で、風呂や水道は各階に共同場が設けられて いたそうです。また、後年まで水の確保が難しく、水道水は 島内では非常に貴重とされてきました。 一方、島の頂きに建つ幹部社宅は水道や風呂が完備され、島民からは「高級マンション」 と呼ばれていたそうです。 |
各見学場へ行く最中に、海岸線の 護岸が認められます。とても高く立派な ものです。この孤島にも大時化の時は、島を飛び超える程の大波が押し寄せてきた そうです。島は建物同士に屋根付きの通路が整備され、移動に傘が要らなかった といいます。 第二見学場の見所は、第二口桟橋と総合事務所でしょう。 主力抗だった第二堅抗から、そのまま第二口桟橋を伝い、総合事務所へと 行くのが工夫達の汎用通路でした。 この総合事務所は赤いレンガ造りの建物で、 当時は工夫の風呂があり、桟橋から出抗の後、 作業服のまま風呂に浸るのが通例で、お湯は泥により真っ黒だったそうです。 |
第三見学場の見所はプールと30棟でしょう。 海岸側に25mと幼児用のプールがありましたが、水は海水を使っていたようです。 30棟は中央吹き抜け口の字型のグレー色、7階構造の社宅で、日本発の鉄筋コンクリート マンションだと云われています。創建は1916年(大正5年)だそうです。 この付近は娯楽施設も整っており、日本発の本格的な映画館、 その他、バー、飲み屋、郵便局、パチンコなど一通りは揃っていたそうです。 これより西側海岸線は高いコンクリートに堅固された 防波壁が続きます。常時、波風も非常に強く削岩塗泥の海洋投棄場でも あったようです。海流も激しい為か、ほとんど汚れは無かったといいます。 |
人口密度は実に東京の9倍職員が面白い話をしてくれました。1956年の売春防止法 施行まで、島内にも売春宿、いわゆるソープランドがあったそうです。 しかし島民は全く利用しなかったといいます。『なぜだか分かりますか?』 いたずらっぽい表情で職員は訊ねます。どうやら、狭い コミュニケーションの中では、直ぐ噂が伝播してしまうそうで、もっぱら利用は 島外者や接待に限られていた、というのが答えだそうです。 |
白い灯台が見えますが、現在のものは1998年の2代目だそうです。 |
再び乗船し、今度は島をグルッと廻りこむ様に航行します。西航路 と呼ばれ、切り出されたビル郡の カットシーンは一番‘軍艦島らしい’局面の連続でした。同船者 もデッキの片側に集まり、ここぞとばかり皆シャッターを切っていました。 |
西航路からみえる延長されたビル郡の中でも、沿岸に這うように 建てられている大型 建造物が31棟です。これは社宅ではありますが、防波、防風の役割が大きかった といいます。入りくねった島内建物構造にあって、ここだけは内部に 長い直線回廊があったといいます。 |
当初は木造家屋が建てられたようでしたが、台風や暴雨により 崩壊したものも多く、火事も1度おきており死亡者を1人だしたこともあるそうです。 東の一番外れに、端島病院があり隔離病棟が併設されています。過酷な労働の末に 精神的な病を罹患する者も多かったのでしょう。 |
端島の石炭は非常に純度の高いものであったそうです。間違いなく 日本の近代化への 一時代を築いた産業の要であり、現在、世界遺産の登録を視野に入れて 自治体や経済産業省を含め活動を開始しているそうです。 結局、島内に参道や安全性の思慮から建物をコンクリ補強をせざるを得なく なる。そうすると純粋に近代文化遺産としての価値が薄れてしまう、そこら辺の兼ね合いが 難しいんだよね。と、職員はいいます。 |
私は昼の部で乗船しましたが、帰りは西日が差して 海に浮かぶ軍船が栄え、非常に綺麗でした。船内は15分くらいの貴重な 記録映像の上映や記念グッズの販売も行われます。 降船後に「軍艦島上陸証明書」が貰えました。 |