立石海上の浪打ち際近くに突き出ている岩で、高さは12mあります。 昔から、三浦七石の1つとして数えられており、かの初代安藤広重らも景勝として描いて います。真鶴の三ツ石と並ぶ神奈川県下の奇岩、名勝としての代表格です。 |
三浦半島の海岸線沿いにR134が廻っており、逗子〜葉山〜横須賀〜三浦 と、この道路を走れば海岸線に在る有名地は大抵カバー出来きるようになってます。立石は、このR134沿いに あり『立石公園』と呼ばれる開放広場の直ぐ近くにあります。 |
波打ち際まで簡単に行けるように階段も整備されています。 長者ヶ崎R134沿い、立石公園の北上に約2kmほどにある海岸線から 突き出た岩礁で、付近は海水浴場にもなっていて中々賑やかです。波浪の浸食によって できた海食崖が発達したもので、主に泥岩からできており、固結した 火山灰である凝灰岩を挟む構造になっています。 |
天神島・笠島R134を南に下ると、「佐島入り口」という交差点があるので、 ここを折れR213へと繋ぎ、「佐島マリーナ」の看板が見えたら更に折れてください。 最終交差点の名前は無いローカル道路のようで、また付近には案内標識も無くチョッと分かりづらいので、 実際に渡島される際には通り過ぎない様、お気を付けください。 |
ここの岩礁では、近くで火山活動が起こっていた事を示す「火山豆石」や 、水の流れによって作られた「斜交層理」がみられるのが特徴です。天神島自体は小さな橋が 架かっており車での渡島が可能ですが、笠島の方は現在、許可なく泳いで 渡る事は禁止されている ようです。遠視で小さな鳥居と堂が確認できました。 また 岩礁へは、ビジターセンターの門をくぐる形で行くことになるのですが、 貝や海草の密猟等の対策もあってか、営業時間外に行くとゲートが完全に閉まっており 海岸線にも入る事が出来ませんのでご注意ください。 |
城ヶ島城ヶ島は三浦半島の最南端に位置する、周囲4kmほどの島です。 三浦半島をグルリと廻るR134の最南下部に「引橋」という交差点があるので、ここで R26にリンクさせる行程が一般的です。 |
島内へは車だと城ヶ島大橋を使う以外はありません。こちらは 有料道路になっていますが、時間外、及び徒歩と自転車での渡島は無料になっています。 |
現在、200世帯ほどの住民がおり、主な産業は 観光と水産によって成り立っているようです。島のほとんどが自然公園になっている構成で、 海岸線の遊覧はもとより野鳥や植物なども観察できて、都心周辺では貴重、かつ手軽な 自然体験スポットになっています。 |
島内で一番有名なのは「馬の背洞門」でしょう。海蝕 によって出来た造形の洞門であり、向かって 西方向より眺めると左にも小さな洞門が開口しており、別名は総して「メガネ岩」ともいいます。 |
古来より景勝地として名高い城ヶ島は、鎌倉時代からも逸話を 残しており源頼朝が使ったとされる湧き水「水っ垂れ」や、大正時代に至っては 北原白秋の『城ヶ島の雨』でも有名になりました。 一方、近代においては立地上、この島は 東京湾の軍事の要となり、現在、その名残としての砲台跡や塹壕跡 などが海岸線に多数残された状態になっています。 |
展望台からの景色は、遮るものが全くないので眺望は最高です。 快晴の日には、房総を望んで館山や鋸山が、西方向を望んでは 富士山や天城山までが見えるといいます。 遠視の出来うる限りがボードに説明されていましたが、私の行った日は ピーカン晴れにも関わらず、西の伊豆方面は 目視確認までは叶いませんでした。距離的にチョッと無理があるようです。 必要なら望遠鏡や双眼鏡を持参するとよいでしょう。 |
三浦半島内地に目を向けてみましょう。こちらは判り易いです。 松輪と呼ばれる競合った対の山と、近くには2基の巨大風力発電施設が確認できます。 位置的には宮川公園と呼ばれR215沿い所在します。 |
東の外れに安房崎灯台があります。付近は ゴツゴツとした剥き出しの 岩礁ですが、コンクリートで歩道を整備してあるので簡単に近くまで行けるようになってます。 周囲は磯釣りができる場所らしく、多くの釣り人を見かけました。ここも波食棚が発達しており 奇岩の宝庫です。 |
毘沙門洞窟離島後、今度は東方面にR215で進路を取っていきます。3kmほど行くと 小道があるので、そこから入って、護岸壁を超えてから 歩いて海岸線を伝っていく行程になります。この、 入り口にあたる小道の所在が非常に判り辛いです。毘沙門陸橋と 毘沙門トンネルの間に、小さい観光標識がありますので、それを目印に付近の海側小道を探して ください。対面に茶屋が有る辺りです。 |
洞窟とありますが、奥行き15〜20mくらいで終わってしまいました。 一番奥につっかえ棒があり、更に奥へと極細い穴が続いていましたが、人の入れるスペースでは なかったので早々に引き返すことになりました。 学術的には弥生時代からの住居や墳墓として使用された、という 経緯がある史跡のようです。 |
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