猿島は東京湾で唯一の無人島で、かつては立地上で 明治時代〜第2次大戦に至るまでの 間、海上防衛の要であり台場や砲台が築かれた歴史をもちます。海軍から陸軍まで交代で管理 した経緯から一般人の立ち入りは長らく禁止されていましたが、1947年より渡航が許可され、現在では 釣りや海水浴などを楽しめるレジャーアイランドとして人気のスポットになっています。 島に渡るには船を使うことになります。 R16沿いに三笠公園があり、園内の(戦艦みかさ)の脇の船着場から 入場するかたちになります。正面入り口の直ぐ右辺りです。 看板が出ていますので園内に入れば、まず迷うことも無いで しょう。 渡航については、1時間に1本程度の間隔でクルーズ船が出ています。夏季と冬季ではダイヤの 変化がありますので、ご注意ください。HPで詳しい時間や乗船料金が記載されています。 (猿島)で検索すればHITします。稀に悪天候で、出航が取り止め になる事もあるようです。 『猿島』の 名前の由来は、日蓮上人が房総から鎌倉へ渡る途中に嵐に遭い、その際、突如 1匹の白猿が船首に現れ安全な当島 に誘導したとういう伝承からきています。ゆかりの地として、日蓮洞窟という名の海蝕海岸壁 が島の西側に残されています。 |
島の周囲は1.6キロほどであり、海水浴や釣り等のマリンレジャー目的でなければ1〜2時間 で島内をグルリと見て廻れる構成です。無人島といっても 、トイレや売店もあり、サマーシーズンには海の家も出店されます。散策に至っても木橋でしっかりと 歩道が整備されており、海岸線に出なければ特に危険なエリアは存在しません。 |
約10分程度の乗船で到着です。中型 規模のクルーズ船ですので特に船酔いの心配もないでしょう。島到着後は、 桟橋を伝って行くかたちになります。入り口の脇の白浜が海水浴エリアです。 |
標高は40mとあり、通路は若干のアップダウン路となります。ご老体用に 杖の無料貸出しがされていました。散策路は巨大なタブが生い茂り昼なお薄暗く、聞き慣れない 野鳥の囀りが響き渡り、 ここが日本なのか?と錯覚するような風情があります。 島の歴史として、 明治期以前は漁民が洞穴を利用するだけ、また以降は、陸海軍が管轄するようになり一般人の上陸は 完全に禁止されたという所以から、開発に伴う木々の伐採から免れた状態で 島の原生林はほぼ手付かずであり、結果、現在まで タブノキやヤブツバキなどの常緑樹が残る特異な場所として奇跡的に受け継がれ、文化遺産以上に、 三浦半島の原始の姿を体感できる場所としての貴重な自然遺産としても価値が高いものになりました。 後年の敷石遺構の調査からは 、宝永の富士山大噴火の火山灰が出土しています。 |
島の海岸線も特徴的であり、上総層群の海成堆積層のうち浦郷層と呼ばれる層によって成って います。 泥岩や角れきやスコリア粒(多孔質の火山噴出物)を含んだ凝灰岩で、所々でホタテ貝やフジツボの破片が出土する事もあります。 島の西側海岸線に日蓮洞窟がありますが、位置として現在の海水面よりも高度位に この 海蝕作用の洞窟は在り、この事は、その昔海面が現在よりも 高かった(縄文時代と推測されています)いう証拠の裏打ちにもなっています。 |
日蓮洞窟は、発掘により弥生式土器が発見された ことにより古代の住居跡として認知され、また、同時に人骨等の発見もあり墓穴としての 用途もあったと推測されています。面白い話では、洞窟は江ノ島まで続いているという伝説もあります。 現在では、天井崩落の危険性から立ち入りは禁止になっています。 一方、島の山頂部からは縄文式土器も発見され、かなり昔から人の往来が あったのは確かのようです。 |
幕末期の動乱は、この静かな島にも大いなる影響を及ぼしました。 1847年に徳川幕府は早急に対外船の対策として、江戸の玄関口である 猿島内に防衛の為の台場を3ヶ所設けました。 ・大輪戸台場 ・亥ノ崎台場 ・卯ノ崎台場 その後、明治期にはフランス製カノン砲が用意され、猿島砲台は観音崎砲台 と共に東京湾を通過する外敵を砲撃し、また本土側から東京湾に浮かぶ各 海堡を援護する、という任務を期待する 軍事上の重要な島となっていきました。 |
更に、島内中央部では要塞建造がなされ、様々な施設が増設されました。 基本的に施設の全てが掘込みに造られ、島外からは見えない構造になってました。切り通しに 兵舎と弾薬庫が交互に並びます。 小窓が備えてあるのが兵舎です。病室や司令室としての用途もあった ようです。 |
弾薬庫内部の奥には上部に続く縦穴構造があり、先の砲台に弾薬を輸送する役目がありました。 結局のところ、明治期の猿島要塞は実戦で使用されることはありませんでした。 一時、陸軍の管轄になりましたが、1923年の関東大震災の際には 兵舎や石垣の崩壊があり、その後、再び海軍省に移管される経緯を辿ります。 再び、その注目を浴びるようになるのは第二次大戦の高射砲陣地の設置まで待ちます。 |
切り通しに沿うトンネルは、フランス積みレンガとして建築上に非常に価値が高いモノです。 レンガ積みには「イギリス積み」と「フランス積み」のパターンが存在します。 |
イギリス積み:小口だけの段と長手だけの段を交互に積む |
フランス積み:小口と長手を交互に並べる 後年はイギリス式が主流になるのですが、明治20年以前では レンガ積み自体の建築が極めて少なかったこともありますが、地震や取り壊しを避け、 現在まで残っているのは全国で、 ・長崎造船所 ・富岡製糸工場 ・横須賀基地内倉庫 ・猿島要塞 と4例を数えるのみになっています。本施設はその内の貴重な1つであり、且つ 最大規模の建築物です。 |
その後、第二次大戦時に本土開戦に備え再び猿島の防衛が注目されます。 1941年に海軍省により、鉄筋コンクリート製の円形砲座が島内に5基設置されました。 8cm高角砲は45年の終戦まで 実際に空に向けて火を吹き続けましたが、敗戦と共に進駐軍に 解体され、現在は防空砲台跡だけが残された状態になっています。 |
来園者数にはかなりムラがあるようです。 私は11月に渡航したのですが、オフシーズンなのか閑散としてました。 |
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