生きてる事が功名か



一本松交差点 中津小学校 中津大橋の坂の前の交差点


   県道R63号を交差点「一本松」で折れてください。 そのまま道成りに進み、中津小学校脇の交差点(下り坂前の信号機 付き)を右折すると、あとは 一本道で辿り着けます。


中津往還 古民家山十邸 古民家山十邸


   駐車場も完備です。


古民家山十邸駐車場 古民家山十邸駐車場 古民家山十邸案内板


    明治初め熊坂半兵衛(1839年〜1897年)によって造られました。 この地方では、 熊坂家は「山十」(やまじゅう)の屋号で呼ばれた豪農 でした。熊坂家が 惜しみなく出資し、 宮大工であった矢内家の右仲・左仲・左文治三兄弟の手によって施工 された建物です。


古民家山十邸 古民家山十邸


古民家山十邸 愛川町 大川周明



   木材質には ケヤキを用い、ほぞ組みやそのほか、当時の宮大工の 技法が存分に活かされた造りとなっており、平成21年には 国登録有形文化財に指定されました。


古民家山十邸 古民家山十邸 古民家山十邸 古民家山十邸 古民家山十邸 古民家山十邸


   その後、 1944年からは 大川周明の所有となりました。 そのまま、1957年の71歳で死去するまで 住居として使用されました。


   大川周明は A級戦犯の容疑で東京裁判で起訴されたものの、精神異常を 理由に有罪を免れました。東条の禿げ頭を後方からペシペシ殴打する シーンは有名ですが、この時期、実際かなり体調と精神を病んでいたようです。 梅毒が進行しており、裁判対象から除外されたあとも暫くは 措置入院を余儀なくされています。


大川周明 大川周明 大川周明


   その後、健康を回復した大川は、 この静かな土地で晩年を過ごし、同時に執筆活動にも 精を出しました。国粋主義的な思想家としてイメージが 大きいですが、 意外にもイスラム教にも精通しており、後年は コーランの翻訳でも有名になっています。


山十邸 山十邸二階 山十邸二階


   天井は高いですがチョッと梁が低いな、という 印象です。ですので、 長身の大川では頭を何回かぶつけたでしょう 。しかし、建物は十分な広さがあり、静かで、 近くには中津川が流れており、自然に囲まれた大変 良い環境でした。


   二階部分の天井は低く、その昔は養蚕に使用されていた感じでし た。 居住スペースは実質一階部分だけのようです。


養蚕説明板 桑の木 山十邸二階



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