地雷博物館 |
ポル・ポトの独裁時代 に殺された自国民は、3年半の間で200万人近いとされている。実に、国民の3割にあたる 値だ。そして、その負の遺産として撤去されない地雷は、未だに存在し人々を傷つけ続けている。 研究では、国境付近の地雷は400万個に上るという。沈黙の凶器は、なお健在なのだ。 |
創設者アキー・ラー氏は、かつてはクメール・ルージュに属して いた兵士であったが、内戦終了後も罪のない民間人が 二次被害に遭い、手や足を失っている姿を目の当たりにし、 私財を投じるかたちで、この地雷博物館を開館したという。 |
地雷撤去には国際的な資格がいるらしく、氏は技能に関しては 独学で学び、現在まで5000発近くの地雷を回収した。展示されているものはその一部である。 |
敷地の構成は 、玄関先から直通する母屋にボードを含めた説明文や机上の武器展示があり、奥の 中庭には円柱状の屋根付き展示塔もある。ここにも大量の廃棄武器が並んでいる。 |
説明文は、英語のほか日本語もあり大変に内容が分かり易い。 氏は、日本語を独学で習得し、日本との関わりも深く、 現在までの様々な活動はマスコミでも時々取り上げられている ようだ。 平時は撤去作業で不在が多いが、運よく在館していれば日本語で内部を案内してくれる事も ある。 |
講義等を聴かなければ、館内見学は15〜20分程度の時間で十分だろう。退場後、駐車場 に戻った。空を見上げると、太陽の光が弱くやや重たく感じられ、 縁石まわりの 雑草に生息する虫達が、 夕暮れ前の大合唱を始めようとしていた。 『だいぶ日も暮れてきたな、早く帰るぞ』 街灯の無い道路は、まさに真っ暗だ。シェムリアップ市内ならまだいいが、少し郊外に出た地方 遺跡施設では、夕刻の訪れと共に景色は一変する。暗闇から猿や野生動物が出没し、 対人的治安面でも安全の保障はできなくなる環境に変化する。 幸いにも、特にトラブルも無く市内まで到着した。主要幹線道である 国道6号を西方向に走っていると、見覚えのある街の風景が見えてきた。 帰ってきたのだ、という実感が沸いた。 日没と共にトゥクトゥクの オープンシートに、吹き込む風が涼を運ぶ。 片言の英語で、ドライバーに最後のお願いをしてみた。 「市内のナイトマーケットで降ろしてくんない?」 若干、呆れた目付きだったが、快くバイクの進路を変えはじめる。 『OK、そこで降ろせばいいんだな』 |
「今日は色々、ありがとう」 ナイトマーケット男と別れ、ナイトマーケットの入口を目指した。 ナイトマーケットは夜間だけ開催する土産屋だ。 市内の中心地ニアッキー像から南に 約2kmと近く、サリーナ・ホテルからも近い位置にある。 みやげ屋のほか、 オープンテラス式の お洒落なカフェやレストラン、バーやクラブ、映画館、マッサージ店 が並び、周囲にはゲストハウスも 乱立している。電灯や電飾ネオンが惜しげも無く使われ、 外国人同志の交流の場にもなっているようだ。ルーフモール式の商業区画に、約120店舗がひしめき合っており、移動は出店間の小路を 使うことになる。内部は迷路の様な細さだ。ただ、ここも水掃けが非常に悪い。 膝まで浸かった水面を掻くように、一歩一歩前進する。思わず、こんな台詞だけが口をつくのだ。 |
「もう、物売るってレベルじゃねーぞ」 |
ナイトマーケットの 商品目は、 シルク、木彫りオブジェ、香辛料、アクセサリー等、特に真新しい物は無いが、夜間開催という 特殊営業形態ゆえに、昼間の遺跡観光に忙しかった人間には有難い存在だ。 価格表示は滅多になく、店員と直接交渉して値段を決める。 US$での取引なので楽である。大抵、 最初は相場以上にふっかけてくるので、同様の店を少し見て廻って比較してから 決めた方がいいだろう。 |
夕食のために、1軒の中華料理屋に入った。 店内の雰囲気は赤い卓と、壁を彩る渦巻き形の紋様、 馴染みの調理メニュー、と日本で目にするものと大差は無い。 違うのはビールくらいか。 ここ カンボジアにあって中華料理と聞くと、違和感を覚える方も多いと思うが、 中国人の数は非常に多い。人口構成の殆ど 9割はクメール人だが、残りがシャム族(20万人)ベトナム人(10万人) 、の次ぎに華僑(5万人)と続く。 実際、この店も旦那が中国人で奥さんがクメール人、という夫婦で経営している 店であった。 華僑の多くが、商業地区に住み流通業全般に従事しているので、中華料理 を商う店舗数は割合として多く、付近を歩いてみれば漢字で筆記された看板が時々 道路脇に現れては、町のありふれた景観の1つになっている。 周達観陸続きのインドシナ半島は、島国の日本で想定する以上に 民族の流動が激しかったようだ。 西に湖を、東に山脈を構えるカンボジア平原は、 古来より、メコン川を遡上した船とシルクで対外貿易を行っていた実績があり、また現在の 地質調査では、紀元前2000年には既に人類の営みが記録された残遺物が発掘されている。最盛期はアンコール期(802〜1431)あたりであるが、 中国人の往来も当然多かったようである。13世紀後半には元朝の遠征軍が近境のラオスやベトナム 付近まで進軍している。 この時、カンボジアにも小隊を派遣しているが敗戦し、兵が捕虜となってしまった。 この時の王はアンコールトム都城を建築したジャヤヴァルマン七世の 1つ後の王、八世になるが、彼は捕虜を フビライのもとに送致する行いをしている。 これがきっかけで、公式の使者がアンコール朝を訪問するようになった。 以降の時代も何人かの使節団があったが、 その代表格として名高いのが周達観だ。彼は、1296年に訪問し た時の記録を『真蝋風土記』として編纂している。建造物や人々の暮らしぶり、 治世や王に関する系譜など、優れた著書であり、 現在、謎の多いアンコール朝にあって、皮肉にも、彼の残した外国文献が 一番詳細で価値のある研究資料となっている。 |
アンコールトム都城について、記している。 ・南大門、はじめ東西南北の4つの門は木製の扉があり夜間の出入りは禁じられていた。 また、手足や指を切断された奴隷の階級の者は通過を許されなかった。 ・中央部のバイヨンは、金の塔が1座あり、周囲は20本あまりの石塔に囲まれている。 小部屋が100余りあり、東に向かって金の橋が延びている。そこに金の獅子が2体、 金の仏像が8体ならんでいる。 ・王の下には 大臣、将軍、天文暦官などがおり、彼らの元でさらに多くの高官や官史が働いていた。 |
・彼らの官舎は立派で屋根には鉛瓦が敷かれていた。それらは全て東を正門にして向いていた。 王の住居に至っては金箔で固められ華麗極まっていた。 ・王に接する人間は限られており、周達観自身も謁見する機会は中々得られなかったようだ。 初めて見た王の姿を、こう記している。王は金冠を頭に被り、手足に金のブレスレットを はめており、それら全てに猫目石を嵌められていた 。王の足裏は赤い塗料が塗られている。外出時は 金の剣を腰に携えた。 |
・比べて、庶民の暮らしは質素であった。藁葺き屋根の家屋に住み、腰にサロンを巻く以外 は裸の格好をしていた。髪を結わえて素足で歩いていた。ただ、女性だけは金のブレスレットや アクセサリーが好きで、かなり一般庶民まで流通していたようだ。 ・各家庭にも召使、奴隷をおくことは珍しくなく、多い家庭だと100人強、通常でも10人程度はいた。 少数民族を買ってくる。相場は元気な成人男性1人で布100枚、子供は30枚程度であった。 彼等の階級ははっきりと区分されており、高床に上がることは許されなかった。仕事で入場を 許可されても必ず跪いて合掌したのち、額を地面に擦り付けから上がらせてもらった。 |
約1年の滞在の後、寧波に帰着し『真蝋風土記』を書き上げた。 公式な史書ではなく、あくまで私的な報告書であったが城郭、三教、貿易、農耕、裁判、行政、 養蚕、風俗、沐浴、など事細かく41項目に分けてあり、 廃都に至る運命を辿るアンコールトム城とアンコール朝の隆盛期を知る手掛かりとして、 当時から現在までにかけ、 超一級品の 報告書に成り得ている。 のちの世、1819年にフランス人東洋学者アベル・レミュザが 、この『真蝋風土記』の翻訳を 行っている。これは、アンリ・ムオがアンコールワットを踏査する40年も昔の話である。 中国におけるカンボジアの史料には、この他に『扶南伝』などがある。 |
ちなみに、邦人が訪れた後、日本に伝えたアンコールワット像とは インドの「祇園精舎」だったという話は有名だ。長崎の通辞島野兼了が 「祇園精舎の図」として持ち帰った尺図形は、 幾何学で計算され尽くした濠や伽藍の配置そのものであり、正にアンコールワットの図面 の其れであった。図面は現在、水戸市の彰考館に保存されている。 |