プレ・ループ小回りコース終了した翌日は、当然、大回りコースにも行かねば! 大回りコースはフランスが整備した観光コースで、かつての湖跡であった東バライの 外周を沿うような概形をしている。直線〜直線の舗装路の脇に見学遺跡が点在している ので、地図さえ持っていれば特に迷うこともないだろう。距離は1周20km程度だ。早速、 市内からトゥクトゥクを拾い、時計の反対回りで見学する事にした。まずは、バライの方形に 従う角の部分に位置する史跡、プレ・ループに到着だ。 コース初っ端の遺跡、その 駐車場で 運転手に料金を払う。キョトんとした男の顔。 『hey! オレを1dayドライバーとして雇えよ』 「いいんだよ、ここで帰ってくれ。ありがとう、では」 そう言って、荷物を全て持ち降車し、駐車場から東正門に向けて歩きだす。 |
プレ・ループは127×117mの綺麗な四角形をしている。創建は961年、ラージェンド ラヴァルマン二世という王によって建てられた。 三段によるピラミッドの体系の形をしており、尖塔を5本有している。 |
アンコール朝の構えたほとんどの都城はアンコール地方に在った が、唯一、(コー・ケー)と呼ばれる 地方に遷都し、都城も築かれた経緯がある 。928年〜942年のことで、この期間だけはアンコールより 北東に約80kmもの遠隔地に都が移された。一時的な遷都の (コー・ケー)から再び、当地アンコールに首都が戻って最初に築かれたのが、このプレ・ループだ。 |
その時代として、建築材料がレンガから砂岩へと変遷していく時期でもあり 、出来上がった造形物 も、様式が混在しアラが目立つ箇所も 存在する。尖塔は表装石の剥離で外形が崩れ、積石の間からは雑草が生えている。 景観は、かなり独特なものに映る。 |
東が正門になり、進む先の第一基壇の中央に石槽がある。火葬に使われたと推測されている。 基壇を結ぶ階段はかなり急勾配だ。 |
駐車場に戻ると、さっきのドライバーが勝手に待機している。 『20$で1日、大回りコースを廻ってやるよ ・・・お前、まさか歩いて大回りコースを見学する気じゃねーよな!?』 男の眼差しは探りの中に、からかいと同時に地理に疎い旅行者への 心配と配慮も露呈していた。人の往来が多い、アンコールトム北門付近までは少なく見積もっても 15kmはある。整備した舗装路であるが、常時30℃を下らない農道を歩いて移動する 人間なんて聞いたことない。熱中症や、万一の怪我があったらどうする?ドブ川から は雨水が溢れ行く手を阻み、夕刻には街灯の無い道は真っ暗になる。こんな辺鄙な農道を 徒歩で行こうなんて 酔狂な奴は、お前だけだよ、と。 『悪い事いわないから、トゥクトゥクかモトに乗って移動しろ』 「いや、いいんだ。歩いて行く!俺は今日、 遺跡内の大自然と、アンコール地方に吹く熱風を受けながら 古代に隆盛を極めた文明の息吹を感じたいんだ。一人にしてくれ」 『はぁ!?』 |
実のところ、先日の小回りコースが半日で終了したので、大回りも大して時間が掛からない だろうと、ホテルで地図や距離を見ながら出した結果だったので、さして心配は 無かった。大回りに逆方向に歩いて、最後にアンコールトム南口のプノン・パケンで沈む夕日の sunset観賞を体験しようと、時間配分的にも自分なりの想定計算の範囲から照し合わせた 本日の予定だ。 案外、歩いていくほうが時間潰しになるだろうし、自信があったからこそ今更、 誰の忠告も耳には入らない。 『何℃あると思ってんだ? ヤワな成りをしたお前が突然、超人に変われるハズないだろ』 「変われるよ。現に俺は変われた。」 『はぁ?』 男の表情は失望に変わった。ここら辺までくると、自分なりの意地みたいなものもあった。 ただ、(暑さ)と言われ、初日の半日観光で頭がフラフラになった事を思い出した。ハッとした 瞬間であったが、ドライバーはそのまま来た道を戻り、バイクの排気と共に一言残し去っていった。 『お前、本当にクレイジーだよ・・・勝手にしろ!』 東メボン東メボンは、その昔、バライ(人口湖)の中央に在った史跡だ。プレ・ループ同様に ラージェンド ラヴァルマン二世によって創建された寺院で、敷地構成や大きさなど類似点が多い。 126×121mでピラミッドのような尖塔配置と、寺院の所在地自体も、プレ・ループの 真北に位置 するという相関性も持つ。建築様式は、一連の方式をさしてプレ・ループ様式と呼ばれている。プレ・ループ様式 は、これらの他にバット・チュム、クティス・ヴィラなどがある。 |
石段が大きいのは、船着場であった場所の名残りであり、巨大 灌漑湖の中心であった裏付けでもある。 露出したラテライト に点状の穴が開いているのは、漆喰を表面に付着させる為の便宜的構造だそうだ。 |
四隅にゾウの石像がある。等身大らしい。保存状態は良い。近所の子供の 遊び場所になっているらしく、ニコニコしながら近寄ってくる。 |
東バライは7×2kmの長方形の灌漑用に掘られた人口湖だった。 9世紀後半、ヤショヴァルマン1世によって造成された。現在は干上がってしまったが、 この湖と、そこから水を引き周囲の水田に隈なく水を供給することで、 アンコール地方の米の収穫高を爆発的に延ばしたとされている。熱帯地方の気候から 二毛作を可能にし、人口や国力の増加にも繋がったようだ。 同様に西バライは、8×2kmとさらに一回り大きく、アンコール地方 で大小様々にあるバライの中で最大の大きさである。シェムリアップ国際空港に近付く 機体の上空窓からも、 その正確な方形を確認できる。中央島には現存の祠堂があり、行くには船が必要になる。 西バライは11世紀の造成であり、王朝の最盛期が始まろうとしていた頃だ。 2つのバライにより、周囲は開墾する土地は無くなるほどに水田が広がって いた。栄枯盛衰。 網の目の如くに張り巡らされた用水路と、多毛作による 灌漑の酷使で、徐々にではあるが、泥土が水路に堆積する事態がおきていたようだ。 時に、泥詰まりは部分的な水路の 機能不全を招いた。 長年、水流と共に溜まった泥土、そして 総括的なシステムを必要とする水の流れと、その管理が困難になった時、水田は 干上がり、農地としての機能を果さなくなった。さらに 急激な水分の蒸散により、 土壌の酸化鉄化を招き乾燥した荒野が広がり、米も収穫高も減り、 それが、経済的な王朝衰退の 一因にもなったとも言われている。 |
この遺跡はまぐさ石が非常に綺麗だ。真近で観察できる。 タ・ソムそのまま、北に進路を取ればタ・ソムに到着する。林道には 時々、日本語の看板を目にすることがある。 植樹や森林整備など、日本の活動団体が多く入っているようだ。 |
カンボジア、という国全体として海外からの NGOの数は現在、総計で240余りを数える。 割合は以下の通り、 アメリカ 68 日本 29 フランス 21 韓国 20 オーストラリア 14 イギリス 13 イタリア 12 スイス 9 ドイツ 8 など、 30ヶ国あまり。 そのほとんどのチームの活動が医療や児童福祉にあたるので、 発展の著しいカンボジアであるが、まだまだ、この国が貧しさの中にあることがわかる。 |
橋を渡ると、直ぐの距離がタ・ソムだ。 川はシェムリアップ川で、西のアンコールトム方向に伸びて、 小水路から都城の環濠に水を引いている役目もある。水量も多く、連日の雨で水嵩が増した状態であり、 橋ゲタぎりぎりまで迫っていた。このシェムリアップ川の 沿川付近だけは豊かな田園が広がっており、土着民の姿をよく目にした。 |
魅力は何と言っても、東門に絡み付く榕樹の破壊美だ。もともとは、塔の尖部に 観世音菩薩四面仏があったが、顔面の一部を確認することさえ叶わず榕樹が暴力的に根を降ろしている。 さらに、側方ベクトルに巨木の自重ごと 強大な牽引力が作用して、石積みごと、まさに根こそぎ門前を倒壊させようとしている。 あまりの凄惨さに少し居た堪れなくなるほどの光景。 「オワルセカイ。コワレルキミ 悲しいね。だけど現実よりもよっぽど綺麗だ」 |
実は、アンコールワットはヒンドゥー教の寺院として建てられたが、 後の経緯として上座仏教に改宗し新しい総合寺院として生まれ変わった。 厳格な宗教の差別化なく、付近の村民が勝手に石仏を奉納したり、また自発的に部分部分の 故障箇所を、逐一彼等なりで修復を行ってきた。 一方、アンコールワットより後年に建造された、 この寺院(12世紀末)や界隈の小寺院、または、アンコールトム都城内でもバイヨン などの中心部以外の施設は、廃都後、村民が住み着かず手入れは行われないまま、木々が生い茂げる 自然の営みに成されるがまま、に放置されて きた。 ほんの背丈くらいの小木が、100年もすれば大蛇のごとく成長し遺跡に 絡み付き、骨格ごと石材を穿つ。 アンコールトム廃都からアンリー・ムオーの再踏破までの、 見捨てられた 、そして静かなゆっくりとした確実な暴力、に想いを馳せた。 「ああ、悠久・・・・お茶をもらおうか」 独り感慨深く地べたに座り込み、ペットボトルのキャップを捻った。冷たい液体が食道を 滝のように流れていった。亡国の果ての偉大なる王達の遺産と 、遠き空を重ねるように、天を仰ぎ見てみた。 ヒュー、ざわ・・・ざわ・・・ざわ・・・ざわ・・・ 木立の葉が擦れ合い音を奏でる。 費やされた年月を感じるさせる熱風が、一瞬、確かにそこに吹いた。 |
しかし、住民達の生活が 自浄や修復を促したというのは面白い話だ。実際、世界遺産であるがアンコールワット遺跡群の、一連の 大小20余りの寺院敷地では、漏れなく 観光客以外の 土着民を見ることができる。 |
僧侶は人目も気にせず袈裟を 脱ぎ捨て、水浴びをする。子供達が唄を歌いながら輪を作って 遊んでいる。老婆は石仏に線香を上げ、手を合わせる。そこにある、 当たり前のカンボジアの生活、歴史というものが受動的に目に入ってくる。 アンコールワットの世界遺産登録を機に、1992年、 アンコール 地域保護政策機構(アプサラ)という保全委員会が設立された。 これにより、 時間外の遺跡内の入場や、(長年、この地で暮らしていた民でさえ) 景観を損なう為の配慮からと、木々の伐採や新たな農地開墾等が禁止された。 敷地内から土着民を締め出し、一応、現状で代わりの土地(エコ・ビレッジと呼ばれている) に生活を含めた全て、の移住を勧める窮策はとってはいる。 この政策により、 結果的に付近からは信心深い信者が消え、線香が上げられる 事も無くなった仏像は苔に覆われ、観光客 の捨てるゴミも溢れだし、それは、しばし森林の奥深くまで細かい断片を 目にするまでになっているという。 そういう土着の住民生活を全否定した結果が、逆に自浄の土壌を喪失しているという、 皮肉な逆転現象 を招いているのだ。 |
タ・ソムの崩壊は、この他、建築時に質の悪い砂岩が用いられた事も その1つの要因でもある。 |
タ・ソムは ジャヤヴァルマン七世によって造られたもので、壁面は デバター像の彫りが深く、パターンが多いのが特徴だ。敷地面積は200×240 と小規模で、小さいお堂といった外観である。 入口に売店があり、ココナッツジュースが飲める。元気を出して、 次の場所に急ぐ。西に進路を取り3kmほど行けば、ニャック・ポアンに到着するはずだ。 |