気球御来光早朝、はたとして目が醒める。疲れて眠った翌日は、妙に朝が早いものだ。 時計を見れば4時を指している。「あっそうだ、アンコールワット御来光を撮りに行こ〜っと」 以前に門前払いを喰らっていた、気球に乗ってアンコールワットを 眺める、という レクリエーションが未体験だった。時間や気候に制約があり、私の行った季節は 早朝と夕刻の2回しか、個人用の搭乗は受け付けてなかった。 気候の制約と共に、チケットの制約も出てくる。 この気球ツアーの開催場は、アンコールワットの西正門の直ぐ脇にあり 、付近に散在している遺跡群は1枚「アンコールチケット」で総括されている。用が無い 場所や、 遺跡内に入場しなくても、道路通過のチェックポイント で入場券の提示を求められる仕組みになっていたのだ。 本日まで、そのアンコールバルーンの存在は既知のものであったが、朝の弱い私は早起きにチャレンジしても 果せず、また、早起きに成功しても、天気に裏切られ朝から大粒の雨の降ってる日もあり、 あれよあれよと無駄に月日を費やしていた。 そして、チケットの期限は本日が最終日であり、 つまり、気球で朝日を拝むという絶好の チャンスは、果せるかな今この1回のみ、である事に気付かされたのだ。 もう、居てもたってもいられない。着の身着のままのラフスタイルで、 サンダルのまま階段を駆け降りた。 「メシ食ってる場合じゃねえっ!」 焦り汗を浮かべながら、早朝の1Fロビーに降り立つ。 フロントに居たのは、馴染みのオッサン従業員だ 。連泊中も、私の 顔もしっかり覚えており、時に、食堂で親しげに喋り掛けてきたこともあった 。何よりも日本語に一番達者なスタッフだったので、気兼ね無く相談できる存在だった。 愛想も良く、ニコニコ笑みを浮かべる眼差しは、相変らず早朝から健在だ。 「アンコールバルーンを開催しているか、電話で聞いてくれ」 |
以前、 バルーン興行会社からパンフレットをもらっていたので、確認の為の電話を依頼する。 窓から空を眺めれば、誇らしげに一面に煌々と無数の星が輝いていた。 まず、雨の心配は無いだろう。 あとは、風だ。気球という特性上、その開催の是非は風位の強弱に 依るものが大きいだろう。 どうなんだ?やってるのか、やってないのか。 素人の私でも、本日なら 無風に近い状態と感じられ、開催については問題無いだろうと確信できた。あとは、職員の判断 に委ねられる・・・ 『デンワ、でないよ』 ズコー。そういえば・・・と回想する。前に一度会ったバルーン 職員が、朝の電話に出なければ直接開催場まで来い、と 言ってた憶えがある。 では仕様が無い、直接行くしかないか。確認の有無もできぬまま、気球の開催場まで行く事は、 もしかしたら無駄に終わる行動なのかもしれない・・・しかし チャンスは、金輪際この1回しかないようだ。色んな理由に託けて、何時かは 搭乗する日もあろうと箍を踏んでいたのだが、結局、乗らずじまいの 期限最終日になってしまっていた。そんな、計画性の無い自分を今更に恥じる 。 妙な焦り顔を全面に出した私を見ながら、 何やら気が付いたように 、そして、心配そうにフロントの男は語りかけてくる。 『トゥクトゥク、5$で呼んであげるヨ』 冗談をぬかせ! 街でモトを掴まえれば、1$ぐらいで4〜5km連れていってくれるわ! 私のケチ心が、返事も返さぬまま 早朝の田舎町の外路地に飛び出す結果を出した。適当に手を挙げれば、日本のタクシー感覚のように 腐心なくトゥクトゥクぐらい掴まるだろうと、という打算もあった。 そんな期待込めながら大通りまで出てみる、と・・・ 「はうあっ!」 そう、人っ子一人いないのだ。昼間は頼んでもいないのに、 トゥクトゥクの運転手が五月蝿いほどに声を掛けてくる、このシェムリアップ市なのに、早朝は、 トゥクトゥクおろか一般車さえ見ない。時計をみれば5時に近い が、未だ4時台に針が指しているのが確認できる。当然といえば当然か。 こんな件から、旅行会社の 企画に『アンコールワット御来光』の催行オプションがあった訳なのか、と成る程と思う。 解説ガイドと予約ドライバーで早朝から送迎するパッケージとして、無駄な手続きを 省く内容であり、多少、個人行動するよりも値段の嵩むオプションであるが 観光客には人気が高いわけだ。今頃に 理解し、後悔もした。 |
それでも、諦めずに車道を仰ぎつつ 大通りを歩いてみる。しかし、暗い街灯の下を このまま進んだとしても、トゥクトゥクは掴まらないだろう。無駄な徒労で終わることは明らかだった。 失敗だ・・・その声は、嗚咽から慟哭に変わった。背に腹は変えられん、と踵を返しホテルに戻る。 目的達成の為には、慮外だがフロントの提示した料金を 剰え受け入れる他なさそうだ。夜さえ明るいホテルの玄関先 から扉を開け、泥よけ用のマットを踏んだ、その瞬間、職員は私を一瞥し言う。 『3$でいいヨ』 何と言うドンブリ勘定か・・・。まあ好都合、と合意し早速に トゥクトゥクを呼び出してもらう。10分くらいで 運転手到着。ホテル界隈に常駐しているトゥクトゥクなのか、対応が早い。 しかし、さっきまで寝ていたのか明らかに機嫌が悪い。彼の髪の毛には寝癖さえ付いている。 「すまぬ。日の出の時間は刻一刻と迫っている。急いでくれ」 『わかったよ、あせんなって!』 焦りは人格を豹変させる。今思えば、申し訳なく感じる程に、余裕も無く、 気色ばんだ対応になっていたのだろう。チョッと不機嫌になったドライバーは、 人気の無い市街地を爆走し、さらに、アンコールワットに繋がる林道を 北上した。電灯の無い道路に 行き交う人の姿は滅多になく、時に、朝日を拝む為にチャーターした外国人用の タクシーが、私を乗せた車両を追い抜く程度であり、早朝の参道は 静寂と夜霧に包まれていた。やはり、前日からトゥクトゥクの予約はしておくべきだったのだ。 市街地から15分ほどで アンコールワットの西参道前の広場まで来た。とらバスの催行のほか、小回り大回りコースなどにも 何度も通過した道路だったの で、大体の敷地構成は理解していた。正門から西に向かう場所に チケットチェックの小屋がある。 ここがチケットのチェックポイントだった。 ドライバーは慣れた通過儀礼のようにトゥクトゥク車体を小屋に寄せた。 『いいか!?あそこでアンコールチケットを見せるんだぞ』 小屋の窓口越しに、早朝から若い女性スタッフが笑顔で対応してくれた。 いらっしゃい、いい天気ですね。そんな社交辞令のあとチケット提示を済ませ、 無事チェックポイントを通過する。あとは、バルーンの元まで辿り着くのみ。トゥクトゥク は、未舗装の土道を驀進し続けた。頼む!開催していてくれよ。 |
暗闇の中に、黄色い球体が浮かんで見える。『ANGKOR BALLOON』その、 大きな敷地面積に不釣合いな程の小さな事務所。その白色壁の 窓から白熱灯の光が漏れていた。時折、影絵のように人間が動いているが見える。 トゥクトゥクを降り、急かされるように事務所まで走りこみ、ドアを叩いた。 「今日はやるかね?」 『大丈夫よ!飛ばすのに、いい頃合までベンチで座って待っててね』 可愛らしい女性職員はニコリと笑う。 どうやら、搭乗は可能らしい。 ホッと胸を撫で下ろす。本日の客は、韓国人一家の3人、と私の計4人という構成だ。 この他、 職員が1人常駐し、計5人を乗せ離陸する。 この操縦職員が、朝日が昇る時間に合わせて気球を上空200mの高さまで 揚げてくれる。上空滞在時間は10分程度。それまでは、チケットを購入したり ベンチで時間を潰す。 朝が早かったのか、家族連れの子供は、椅子の上で居眠りをしている。 |
おせー、なぁ。時計を見れば15分近く経過している。 腹も減ってきた。案外、 ドライバーを急かせてまで運転させるまでもない時間配分だったのかな・・・? そんな事を、椅子に座りながらぼんやりと考えた。 昼間は喧しいほどに思える 周囲の出店は、この時間、 まだ1軒も営業してない。パンやドリンクくらいの軽物は 持参した方がよかったかな・・・ 『come on. sir!』 やっとの事で、 職員に呼ばれ、ゲートをくぐる。いよいよ搭乗の時間だ。 円形サークルの一端に入口があり、その場所から階段が降りている。 乗ってみると、比較的大型でしっかりした造りである事が判る。客室 手摺部から球体にかけはネットが掛かっており、頑丈な鉄製バイプに囲まれた円形エリア は、細い通路ながらも人間2人の擦れ違い移動も可能な構造だ。 好きな方位と局面で、シェムリアップ平原を360度見渡せるよう設計されている。 大型で且つ、安全な乗り物であるのは 証明済だ。 |
上空の運転手が風を読みながら、 地上とバルーンとを繋いでいる太綱をウインチで操作するモノらしい。常駐職員が居る 運転席には、何やら小難しそう 専門機材が並ぶ。ボタンやレバーが配列してあり、私が、 その計器を物珍しそうに覗いていると、 笑いながら手招きして言った。 「本日は客も少なくて暇だから、ゆっくり見ていけよ」 |
キュイーン、キュイーン ウインチの回転と共に、気球が高く舞い上がっていった。 地面がドンドンと遠ざかっていく。アッという間、1〜2分もすれば高度200mの 目線でシュムリアップの平原を見渡せることが出来る。さすがに、遮るものもない 平野の景観は素晴らしく、東方向を望めば薄霧に霞むスクウェア型の環濠と、それを取り巻く グレー色の石積が確認できる。 その綺麗な長方形こそが、アンコールワット大伽藍だった。 「へー、すごいじゃん。よく見えるわ」 単なる、高度から見下ろし伽藍の対称性を理解する、という主旨であれば、それはそこで終わって いただろう。しかし、朝日が昇ろうとした瞬間から、その趣は変わる。 強烈な黄金色が尖塔の輪郭を映す。 静かに、そして何百年もそこに横たわっていた桃源郷が目の前に鮮やかに浮かび上がった。 |
信じられないような情景だった。見た事もない情景だった。 膨大なエネルギーを迸らせ 日輪がゆっくりと姿を現し、有り余った放射光線が環濠の水面に撥ね返えって光った。いや、 環濠も、尖塔も、森林も、気球も、人の肌も、 全てのものが金色に包み込まれたのだ。 昼間では絶対に見ることの出来ないだろう瞬間、極色彩の情景。 古来より、人類の崇拝の対象で在り得た太陽光が、全てを迎合し、そして同時に 祝福の時間を運んできたのだ。 そうか、この瞬間を待っていたのか! 職員達は、この朝日が昇るベストタイミングを待っていたのか!! |
駄目だ・・・シャッターが押せない。 感極まる自分が居るのがわかる。カメラを持つ手が、シャッターを押そう とする指が、震えているのがわかる。言葉も出ない。 ファインダーを覗く視界が暈けてしまう。そんな、心の昂ぶりと高揚感を抑えられない 自分が居るのがわかるのだ。あまりにも美しかった。 |
西参道正門で見た御来光とは、比べ物にならない 桁違いの感動だった。よく、尖塔が沐浴池に鏡像になって なって映る二重写真が、西参道のアンコールワット御来光の粋な撮り方だ、といわれる。 しかし、200m上空のこの場、私の眼という小さな池 に映る5本の尖塔像も、間違いなくアンコールワット伽藍の鏡像として 射影されていたことだろう。溢れる水位の 許容 限界を超えた時、堰を切った雨水の如く、滝のように涙が頬を伝った。滂沱、滂沱、また滂沱。 |
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