生きてる事が功名か


第三回廊中央尖塔



第三回廊

   揺らめく炎のように迫立った尖塔の外形とは、 重層の屋根の縁に 仏像や石物を安置した、総合的な造形であることがわかる。 その1つ1つは、神々でありナーガでありガルーダである。


尖塔部 第三回廊 第三回廊


アンコールワット  第三回廊   Angkor wat



    デバターには朱色の色素が残っていた。アンコールワットの完成当時は、神々のリリーフ にも色が塗られ、 回廊は金箔で覆われ、柱も茜色を帯び、寺院そのものが 極色彩の様相であったという。シュムリアップ 市内を観光した際の仏教寺院のド派手さを想い起させた。


ワット・ケサララーム ワット・ケサララーム


   第三回廊の構成は、60m四方の回廊の真ん中を『田』状の十字型の通路を有し、 最中心部には、石壁を背して東西南北に向かい4体の 石像が安置されている。この部分は、すり抜け交通は出来ない構造になっている 。 安置されている石仏は、現在のカンボジアで信仰されている上座仏教由来のもので、 旧像を廃し仏像に取って替えられている。


    十字に仕切られた 各4空間は、沐浴槽になっており、通路から階段で乗降が可能だ。 外周回廊のテラスから見る下界の景色は、広域パノラマの景色で、平原のかなり遠くまでをも 眺望できた。


第三回廊 第三回廊 第三回廊中央祀壇の石像 第三回廊


   テラスから 正門である西方向を遠望すると、黄色い球体を確認できた。 『アンコールワットバルーン』 である。気球で上空から寺院全体を見下ろせる人気の余興だ。


第三回廊中央祀壇の石像 第三回廊テラスから西方向 第三回廊 乗降階段


   階段を降り、無事に石敷の第二回廊の内部敷地に降り立った。 妙にホッとした気分になる。 次の見学先はどこだろう?何気なく履き物やカバンの用意をしていると、瞬間、ガイドから 出た言葉、


『じゃあ、次はモリモトウコンダユウを見に行きましょう』


「えっえ?凄い言葉知ってるねぇ、森本右近太夫一房の事でしょ?
日本人の半分くらいは知らないと思うよ。そんな単語」



    森本右近太夫は日本に馴染みがあるので、対日本人のアンコールワット観光なら外せない事項の 一つであるが、それを差し引いても中々に日本語も達者で、よく勉強しているガイドだった。 旅行本に無いような現地の事情も知ってるし、遺跡間の裏道なんかも 教えてくれたりと、結果として助かる事が多かった、というのが旅を終えた時点での 感想だった。


『でも、漢字が入ると途端に難しく成りますよね、日本語って』


    そう言って笑いながら今度は、 元きた道を 引き返し始めた。新たな見学場所である、森本右近太夫一房 の筆記があるその場所、『十字回廊』へと誘導してくれるようだ。そこは、第一回廊と第二回廊を結ぶ 正面の通路であり、距離としては、ほんの目の前の場所だった。


   振り返って、 再び5本の尖塔を仰ぎ見た。天を貫くほどの山の頂だ。そして、 その瞬間から背後の空が黒く暈けていくのがわかった。辺りは急に 薄暗くなっていく風雲急・・・雨雲だ。スコールの襲来を予感させていた。



十字回廊


森本右近太夫一房の筆記 森本右近太夫一房の筆記


アンコールワット   森本右近太夫一房    十字回廊





《右より改行》



寛永九年正月二初而此処来ル生国日本

肥州之住人藤原朝臣森本右近太夫

一房御堂ヲ志シ数千里之海上ヲ渡リ一念

之胸ヲ念ジ重々世々娑婆浮世之思ヲ清ル

為ココ二仏ヲ四行立奉物也

摂州津西池田之住人森本儀太夫

   家之一吉   裕道仙之偽娑婆二

慈二書ク物也

尾州之国名黒ノ郡後室

老母之魂明生大師為後生

慈二書物也



                   寛永九年正月 






    寛永九(1632年)に肥州の住人藤原朝臣森本右近太夫一房が、父親の 儀太夫の弔いに、そして老いた母親の後生の幸福を祈願し、 4体の仏像を奉納した。という旨の筆記である。 所々、解読不能なのはポルポト時代にクメール・ルージュがペンキで上塗りして潰した為だが、 時の経過で少しずつ剥げ落ち、現在では、かなり以前の姿を取り戻しつつある。


    父儀太夫は加藤清正の重臣であったという。 当時は朱印船貿易が行われてた時代で、付近の 日本人町には、200〜300人の邦人が暮らしていたそうだ。事実、 森本一房以外にも筆跡跡というものは残存しており、現在まで寺院全体で14例ほどが確認されている。 そのうち13が当地区である十字回廊のものだ。


   この十字回廊は、名前通りに十字の構造をもつ回廊である。正方形の『田』型に 回廊が造られている。構造上にそっくりな 第三回廊よりは一回り小さい規模だ。 仕切られた空間は、同様に沐浴桶として設計された。 彼の筆記は南寄りの柱、高さ2mの位置にある。


   ちょうど、ヒンドゥーから上座仏教に帰依した契地 の場所であるプリア・ポアン区画の、直ぐ横の柱だ。 回廊の天井に大きな黄金色い幕が吊るされており、目立つ一画であるので すぐその場所だと判るだろう。 プリア・ポアンは邦名で 「千体仏」と呼称され、付近の住民含め 改宗以来、多くの石仏が奉納された場所である。現在仏像は、 数にして千体もない。せいぜい、数十体ほどだ。1000体とは誇張された命名だが、 石仏の数は以前に比べ、その数は確実に減っている。 これもクメール・ルージュによる破壊や奪略による結果のものだ。



森本右近太夫一房の筆記 プリア・ポアン区画 プリア・ポアン区画



ピカ!ゴロゴロゴロ〜〜〜〜〜


    突然の雷鳴が轟く。
    10月という雨季の真っ只中の、カンボジア初日の雨の洗礼だった。


ピカ!ゴロゴロゴロ〜〜〜〜〜


   兎に角、凄い短時間降雨量だ。付近は昼なお薄暗く、(バケツを引っ繰り返した様な)大雨 、正にこんな言葉がお似合いの空模様。 日本なら、ゲリラ豪雨でTVで速報テロップが入り、安藤優子のテンションが最高潮になるレベル。 ここ、十字回廊においてでもV字のアーチを描く屋根の縁から滝の様な雫が落下し、 沐浴桶に本当に水が満たされていくような勢いだ。


十字回廊の沐浴 スコール中は薄暗い


    こう薄暗くなるとカメラもフラッシュが必然になる。そして、何より 遺跡内には電灯が全く無い。 天気を度外視しても、夕刻になると必然的にアンコール一連の 遺跡群は真っ暗になる。従って、見学は 5:30までの6:00完全退場と、運営側でオフィシャルに発表しているが、 事実上は5時を過ぎると暗くなって身動きが取れなくなる。万一を考えるなら、懐中電灯 の常備もしておいた方がいいだろう。


    そして、雨季乾季問わず合羽の持ち合わせは当然だが、記録メディア、特にカメラ等の精密機械は 雨曝しで故障する可能性もある。今後、アンコール観光をお考えの方なら、 この辺も一考する必要があるだろう。


千体仏 千体仏


『じゃあ、ホテルに帰りましょう。 午後からはアンコールトムになります』  


   再び ワゴンに乗り込み、サリーナホテルを目指すことになった。少し名残惜しく、大伽藍の尖塔を振り返る。 空に浮かべた雲が左から右へ凄い速さで 流れていくのが見えた。何だか、ドラマやアニメの様な光景だった。 嘘のように太陽が輝きだし、 洗礼の時間が終わった瞬間を告げた。


スコール中は薄暗い 雲の切れ目


FアンコールトムA
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