生きてる事が功名か


南大門ですぅ



   ホテルで昼寝した後、今度はアンコールトムに向かった。 ワットの北上1kmに入口の南大門がある。トムに「門」と言われるものは、 周囲3km四方の環濠に架かる 橋の入口にあたる東西南北の4門、及び「勝利の門」の5つが存在している。この中で 一番有名で観光客も多のが南大門だ。シュムリアップ市やワットから近距離で 交通の便がよく、門のすぐ南にプノン・バケンというサンセットで有名な丘があり、 その造型として橋の欄干が特徴的なデザインでなので、 観光客からも人気が最も高い。冠とおりにトムの 南方向に開口した大門で、 名実共にトムの 正門にあたる場所である。 写真の象乗りの余興も、この橋を渡るかたちで引率してくれる人気イベントである。 橋は 交通の往来が激しいので、開催時間には縛りがある。


『どうですか、ぐっすり寝れましたか?』


   昼を回った1時過ぎ。ガイドと ホテルのロビーで待ち合わせの時刻、ここで彼女の開口1番目に、 私の行動は大筋で読まれていたことを知った。 というのも、ここカンボジアにあっては季節毎の降雨量の変化は大きいが、気温は 常時30℃を下ることは無く、一年中うだるような暑さが続く。疲れから昼寝をするだろうと、彼女も 行動を読んでいたのだろう、否、大抵の日本人旅行者は同様の行動をとり、慣れっこのパターン だと熟知していたからの言葉だったのかも知れない。


    実際、半日の観光でも異国旅行の興奮で はしゃぎ回っていたせいもあり、また、慣れない気候の変化に身体が連いていかなかった 事もあってか、昼前から急激にだるさを感じていた。 疲れが続くようであれば、午後からの観光はキャンセルして 寝込んでしまおうか?とさえ、思うほど意志も弱気になっていた。


    取りあえず、昼寝の後に行動を決めようと 食堂で昼食を取ったあと、 ベットに倒れこむように寝ていた経緯だった。1時間ほどだろうか、泥のように寝ていた。 幸いにして、起きたら元気が出て観光を続行できるくらいに回復したが、一時は 意識もボーっと朦朧状態で、軽い熱中症のような状態を呈していた。


    ここカンボジアにあって日本の旅行者が体調を崩す事例は少なくない。 2000年代に入って、死亡例も起きている。高齢旅行者の熱中症例のようだが、 日差しの強さと、体内水分の蒸散具合には、日本で生活しているぶんには 予想以上の落差がある。おまけに数時間とはいえ 飛行機の乗機疲れと、「2時間の時差」という事象も確実に存在している。


    であるので、現地に入ったなら 体調管理は勿論のこと、外出の際には 水の常備、帽子、サングラスの他に‘日差しが強いからこそ’の長袖の衣類なども必要視しておいても 損は無いだろう。下記写真左は、後日、1日分 のみで日焼けした部分の写真だ。右は、常時暑いシュムリアップ地方での現地民が水田で 水涼みを楽しむ様子。強烈な太陽光は恵みであると共に、大いなる脅威でもある。



日焼け 水田での水涼み



   忘れてならないのが、感染症に対する備えだ。熱帯特有の疾病、 蚊を媒体とするマラリア。これは未だ確実に存在している。そして肝炎の注意も必要だという。 市内の清潔なレストランなら危険は少ないだろうが、 屋台の貝類、魚類などの料理を経口摂取する際、留意する部分はあるだろう。体調を崩し 重篤な状態を呈すると、日本における様な 最新の医療技術が存在しないシュムリアップ市内では、 超え手に負えないと判断すると隣国のタイに 搬送することもある。


   最後に、相当ジャングルの奥地に入らないと危険性は無いが 、地雷の存在も認知すべき事象である。「地雷を踏んだらサヨウナラ」、 日本におけるアンコールワット書籍で最も有名な関連本であるが、実際、 かなり郊外の遺跡では 見学ラインの境界線に『地雷注意』という、禍々しい立て札を目にする事もある。



地雷注意 地雷 地雷博物館にて



歴史の包括

   トム全体で 3km四方の広大な敷地を有し、周囲はラテライトを使用した 壁により外界から遮壁されている。その最中央部にバイオンが建築され、 十字状の大路に沿って各遺跡が 点在している。遺跡群はそれぞれ見所が多く、見学者は 駆け足の観光でもワットよりも時間を割くことになるだろう。



アンコールトム全体図



    濠の内側は強大な城郭であり、王族や僧、高級仕官達の生活居住の場であった。そして、 都市そのものが巨大な灌漑の用途を有している。 つまり、北東から南西にかけて土壌の高さに5mの高低差を出し、幅130mの 周囲環濠から水を内部に 引いている。これにより水路を隅々巡らせ、緻密な設計の 美しい水上都市を実現していた。


    一見、バイヨンを中心に周囲の点在史跡が 同時期に計画的に創建されたと思われがちだが、実際は 創建の時期が違う。 当然、遺跡毎の宗教の母体も 微妙に変わり、隆盛ぶりも 時の経過と共に変遷している。


   ワットの建設開始は1113年とあり、その後の68年後の1181年に 北上1kmの土地にトムの建設は始まった。当時に創建の王は、ジャヤヴァルマン七世 という男だ。そして、王自体が初めて仏教徒でもあった。


   ワット完成後の1177年に、アンコール朝は チャンパ軍の侵略と蹂躙を受ける。そこで、ジャヤヴァルマン七世は堅固で強大な 城郭の建設に着手した。既存のヒンドゥー遺跡、ピミヤナカスとクリアン遺跡群(10世紀末) バプオーン(11世紀中頃)プリヤ・ピトゥ(12世紀前半)などを、一部改良し増築したのち そのまま残し、 更に、最中心に仏教大寺院であるバイヨンを新設した。


   アンコール考古学における研究上の分類として、 創建の各年代ごとに建築様式が細かく識別されている。 この、 先端の膨らんだ石棍棒のような奇特な塔の建築様式は、称して 「バイヨン様式」と呼ばれている。 16本にも及ぶ巨大石の四面観音菩薩の微笑みと、 独特の造型は見る者に強烈な印象を与える。 既存には無かった独創的なデザインと建築規模は、この土地に訪れた 渡航者達の度肝を抜いたようだ。 周達観は、その『真蝋風土記』の中でバイヨンの壮麗さを、事のほか 細記しているし、 アンリームオーにしても、フランス帰国後にギリシャやローマ以上の 規模と華麗さを誇る史跡である、と見聞を伝えている。


   もっとも、彼らを感動させた更なる要因として、一連のアンコール朝の建造物の ほとんどに細美な彫刻を施してあり、荒削りな部分が存在しなかったこともある。 意図的にリリーフが彫刻されなかった寺院や、後年に宗教的な理由から 削ぎ落とされた経緯は別として、石壁の至る所、隅々まで神々の姿やデバターが 丁寧に掘られている。ミクロからマクロ的に、総括された人労と費やされた月日は 莫大なモノであっただろう。


   ワット及び、トムの2大史跡にもリリーフは所狭しと 彫られているが、 一般的に ワットよりトムの方が彫りが深く立体的なのが特徴である。


四面観音菩薩 バイヨン様式




1世紀    扶南が興る

7世紀    真蝋が興る、サンボール・プレイ・クック建築開始

9世紀   ジャヤヴァルマン二世、アンコール朝建国

9世紀末   インドラヴァルマン一世、ロリュオス遺跡開始

10世紀末   ジャシャヴァルマン五世、 ピミヤナカスとクリアン建築開始

1050年   ウダヤディティヤヴァルマン二世、バプオーン建築開始

1113年   スールヤヴァルマン二世、アンコールワット建設開始

1177年   チャンパ軍の襲撃

1181年   ジャヤヴァルマン七世、アンコールトム建設開始

1296年   周達観、アンコールワット訪問

1632年   森本右近太夫一房、アンコールワット訪問





南大門

   
南大門


アンコールトム  南大門   Angkor Thom




   チャンパ軍の急襲に備え、南大門含め周囲の 門は木製の大扉で閉じる事が可能で、夜間は完全閉鎖され通行禁止になった。 ほぼ、方位4門と勝利の門は同型で、門の 最も高い先端部までは23mもある。デザインされている四面観音像の顔面尺 は高経3m以上だという。門の両サイドからは 延々と1辺3kmの総計12km続くラテライト城壁があり、高さは8mもある。 立派な防御壁である。


南大門 内部扉 天井は23mもある


    人気の写真スポットが、門前の「象の鼻」だ。門の通過部の両脇にあり、 3本垂れ下がった石積で、鼻の間に入って 抱きかえるように撮影するのが通のようだ。やや高台になっているので、 よじ登るような運動が必要になる。鼻の上部にも彫刻があり、手を合わせた侍女達のリリーフと して有名である。


神象の鼻 神象の鼻 侍女達の像


   欄干の 二列の像は「乳海攪拌」を石像で模したものだ。その、ユーモラスな表情に堅固な居城の 入口であった、厳戒感と警戒性は思わず薄れてしまう印象だ 。54体の阿修羅像は、トム完成当時の石材も あるが、クメール・ルージュの破壊工作の結果で、現在、幾つかはレプリカとして代用設置となっている 。


    遺跡の破壊は、人為的要素のみではない。 木々の成長という動的な要素はかなり大きいが、「砂岩 の風化」という静的な要素も、また 800年以上の時間の経過では 自然の摂理になるだろう。阿修羅の胴体に緑色の斑点が確認できるが、 これはバクテリアのコロニーである。 高温多湿の気候柄、熱帯遺跡の宿命とも言える。そして、 バクテリアは生きている。代謝により 有機物を分泌し、その成分が、石材の破壊に拍車を掛けるのだという。


    欄干の 手摺部分は、阿修羅と神々が綱引きをしているという縮図であり、綱の本身は、あの 蛇神「ナーガの胴体」である。 バイヨン という宇宙空間への入口、その玄関先架橋である南大門を トゥクトゥクで渡ると、流れていく巨像の切迫感 と、風を切るって走る感覚が非常に心地いい。


阿修羅像 蛇神ナーガ



バプオーン

   門を北上すると突当りがバイヨン、その脇にバプオーンはある。 11世紀中頃の創建で、 宗教母体はヒンドゥーである。まず、長い空中参道が続く。高さ、2mの円柱様石材を立て、 その上を石橋で繋いでいる。


Baphuon 空中参道 空中参道


    左が男性用の沐浴池、右が女性となっている。近年まで、 付近の住民が実際に水遊び等に使用していたが、世界遺産の登録を機に 入浴は禁止され、現在、そのような風景は 見られなくなった。


刳型の底部基壇 Baphuon 第二基壇から東方向


    刳型の底部基壇が三層に重なるピラミッドであり、高経は50mある。 遺跡損傷の度合いは激しく、 現在、フランスチームが修復を手がけ、 所々で立ち入りが禁止になっている区画が存在している。


    最中央の祭壇は テラスの枠だけが残り、どこか西洋建築を連想させる。建築様式としてバプオーン様式と 区分されており、装飾が豪華なのが特徴だという。 現在も修復作業は続いており、最上壇に登る階段は設置されているものの、 登場は禁止されてる。階段前には柵が衝立してあり、禁止の立て札が掲げてある 。ああ〜、登ってみたいなぁ。


中央祀壇 登頂禁止 中央祀壇



『コラ〜、そこのチミ〜!』


ピーーッ!ピーーーーー!
突然笛が鳴る。警備員が注意喚起の大声を張り上げる。


    見上げると凄い勢いで階段を駆け上がる男の姿があった。 どうやら、警備員の影に隠れてコソコソと階段を登 る観光客の暴挙のようだ。職員に呼び止められ、 引き戻された先の場所で大目玉を喰らっている。


「久々にワロタ」



Baphuon Baphuon


アンコールトム  バプオーン  Baphuon




    上壇から地面に降りて、ガイドと二人で 大きく敷地を巡回し、バプオーンの真裏まで来た。少し前のスコールにより 遺跡間の通路は 水浸し状態で 、付近の観光客の数も疎らになってきている。 彼女は一体、どこまで私を引導するつもりなんだろう?


Baphuon Buddhist monks 裏門



『ここから、寝釈迦の石積が見えます』


   裏門にさしかかろうというその場所、最西区から 指示された東方向を振り返ると、ああ、分かる。釈迦が頭を左に向け、掌を後頭部に当てて 横臥位になったリラックススタイル。寝釈迦像の構図が私にも判った。


   ヒンドゥーから改宗後、トム完成を経た後、14世紀に さらに増築された部分だ。全長70mとあるので、少し遠目に成らないと判り辛いのかも しれない。



寝釈迦 Reclinng Budda 中央祀壇



GアンコールトムB
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