生きてる事が功名か


   普段は立ち入り禁止の厚木基地内部ですが、 年度毎、春にスプリングフェスティバル として、夏に独立記念祭として一般人に開放されています。


アクセスと入場方法


さがみ野駅 東柏ヶ谷 東柏ヶ谷交差点の角はパチンコ屋です


   最寄駅は相模鉄道本線の『さがみ野駅』になります。基地周辺 には大型 駐車場は無いので、極力、電車で行った方がいいでしょう。バイク置き場や二輪置き場 等も、猫の額程度の小さい敷地面積ですので無いに等しいです。


   駅を降りたら、道成りに進み最初の信号付き交差点「東柏ヶ谷」で 右折します。R40という幹線道路にリンクする結果になります。あとは、ひたすら 直進です。1,5kmほどの距離ですが、皆さんタクシー等は使用せず歩いて向って いました。


    列の後にくっ付いていれば迷う事なく辿り着けるでしょう。途中、東名の上を渡る時に 若干のY字形態に成りますので、反れないよう気を付けてください。兎に角、直進です。



東名の上を渡る 厚木基地正門 フェンス沿いの列



   入場には身分証明が必要になります。職員が門前で来訪者の 持ち物チェックと、身分証明書の目視確認をします。この 一人一人を漏れなくチェックするという作業時間に多大な時間が掛かり、正門から溢れた 順待ちの人間が、毎年、 外壁のフェンス沿いにグルリと巡る様に列を形成する結果となっています。 また、正面入場口は写真撮影禁止なので気を付けてください。



運転免許証 説明文


厚木基地開放日 アクセス 入場方法



   身分証明書の提示で有効なものは、



・運転免許証(※本籍が記載されていること)

・パスポート

・写真付住基ネットカード

・外国人登録証



    です。運転免許書でも本籍記載が無い場合は、本当に門前払いを喰らう事がありますので、 ご注意ください。パスポート提示なら一発スルーでOKです。



スプリングフェスティバル2012


基地内 フットボール広場 生バンド演奏


   開放祭における メインエリアはフットボール広場で、屋台や小児用の乗り物、生バンド演奏 と様々にあり、茣蓙を広げて寛げます。 Halsey Aveがメインストリートで、生活エリアと滑走路エリアを繋いでいます。



Halsey Ave マック マック 新聞 標識


   基地内は結構広いのです。野球場やゴルフ場、スーパーマーケットや マックなど一般商店街はもとより、消防署や巡回バスもあります。 バス路線も細かく停留所が設置されていました。



野球場 ゴルフ場 バス停


    開放祭では トイレも暫時併設され親切設計でした。



トイレ トイレ 鳥居


   海上自衛隊も施設共有になっています。1970年には、 万博開催における羽田空港の混雑緩和のため、一時的に 民間航空機の乗り入れを許す、という 例外措置がとられた経緯もあります。



案内図 基地概要 消防車


   生活エリアの航空機は完全に展示用としての設置になってます。



厚木基地 F-4J F-4J VAQ-136 VAQ-136 HSL-51


   操縦席に入れるモノもありました。



HS-14 HS-14 HS-14 HS-14 VF-102 VF-102


   滑走路エリアは最新鋭の現役機が列座してありました。



滑走路エリア 管制塔 滑走路エリア 厚木基地 US-1 P-3C


   自衛隊機を真近に見れまして勉強になりました。



CH-47J CH-47J CH-47J CH-47J 操縦席 内部


    私自身は戦闘機の知識は全く有りませんが、迷彩服を着込んだ 軍事マニアの方も大勢おり、大きな一眼レフ片手に食い入る様に写真を撮っていました。 好きな人には堪らない魅力があるのでしょう。



VFA-115 VFA-115 VFA-115 VFA-115 VAQ-141 VAQ-141


   航空ショーも行われるようです。



HMM-265 HMM-265 HMM-265 HMM-265


厚木基地  スプリングフェスティバル2012  ヘリ演習



   撮影時にリクエストをすれば操縦席でキメポーズをしてくれたりします。



VFA-102 VFA-102 VFA-102 VFA-195 VFA-195 VFA-195


   ヘリ内部に乗れました。ドア前でパイロットが色々説明してくれまして、また 写真の代行撮影までしてくれてサービス満点です。



HSL-51 HSL-51 HSL-51 HSL-51 HSL-51 HSL-51


    この日は五月の連休でしたが、妙に気温が上がり歩くだけで体力を消耗してしまいました。 ゆっくりと観て回るのがいいでしょう。 それぞれの場所に屋台があり、清涼飲料、ビールなどの販売も行っており 祭りのような感覚でした。 ピザがご当地名物のようです。 グッズ販売も行われていました。



E-2 VRC-30 UC-12F UC-12F P-3C P-3C 厚木基地 厚木基地




内部リンク(横田基地開放日へ   F22など)
横田基地開放日




内部リンク(横須賀基地開放日へ   フィッツジェラルド号など)
横須賀基地開放日







スプリングフェスティバル2013

   とにかく、今年は門前で長時間待たされました。いつもは基地エリア の北西角、「桃並交差点」を折れた少し先くらいが最後尾なのですが、今年は 更に南西の角まで突き抜け、まだ終わらず光綾公園を東方向折れて、さらに中学校 脇の小路まで行き着きました。



桃並交差点 列の距離と周辺地図


   距離にして2,2km。時間を計ってみましたが、12:51の最後尾 に付き、正門を潜り入場を果したの が14:45(最初、列の尾を見付けるまで正門から20分近く歩いています)でした。


   もし、これから来訪の予定がある方なら混雑時は見合わせて 計画的に行ったほうがいいです。 また、待ち列の 途中にはコンビニや清涼飲料水の自販機等が少ないので、並び時間を覚悟した上、飲み物や 時間潰しの本なども持参した方がいいかもしれません。



案内図 生バンド演奏 小児用アトラクション 着ぐるみ


    真新しい物は有りませんでしたが、メインエリアの 小児用バルーン型 アトラクションが巨大化してました。また、滑走路エリアでは写真撮影 の為の着ぐるみパイロットも出現し、サービスが向上していた、ような気がします。



厚木基地 厚木基地


    地震体験車や自衛隊募集もありました。



地震体験車 自衛隊厚木募集案内所


厚木基地  スプリングフェスティバル2013



    VFA-195はパイロットと2ショット写真が撮れるとあって、大行列ができて いました。小さな子供用ヘルメットも用意されており、子供達も大喜びでした。



VFA-195 VFA-195 VFA-195


今年も晴天に恵まれた一日でした。



VFA-102 VFA-102 VFA-115 VFA-115 VFA-27 E-2 グッズ販売 厚木基地 P-1 P-1 H-3 H-3





1945年8月30日


1945年8月30日14:05




   快晴であった。1945年8月30日、午後2時を廻った頃だったという。 霞みの無い晴天を割る様に、遠き 東の空から飛来してきた 『バターン』と刻まれた機体のC54がゆっくりと着陸した。 周囲に緊張が走る。 金属パイプの光輝くタラップが降ろされ、機内から 一人の男がゆっくりと降りてきた。やや、大げさなモーションで 厚木飛行場をグルリと見回す仕草をしてのける。それは、まるで集まったプレス 関係者に写真を撮られることを意識したかのような動きであったという。


    身長は190cmと堂々たる体躯、レイバンの サングラスとコーンパイプを咥えた、独特のスタイル。 その男こそ、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー、その人であった。 この時、当年66に達していたという。



マッカサー像 マッカサー像


   敗戦よりたった二週間後に、実質日本を統治する男を日本に 迎えるに至った日本側に於いては、その速急な連合軍側からの 対応の希求と現実の措置には大きな隔たりがあり 、非常な苦労と混乱を招いたようである。




   「生きて虜囚の辱めを受けず」




   戦陣訓でも当たり前の様に示された戦中の人間にとって、8月15日を境に御国 の敗北を認め 戦勝国の人間を無条件に受け入れる、という行為を素直に呑むことは 到底堪えられない 心情であった。事実、 8月14日には降伏を潔しとしない 陸軍幕僚が、玉音放送を前に戦争続投と再起を図り皇居を襲撃する という クーデターをおこしている。



   ここ厚木飛行場でも同様のことがおきていた。 終戦間際、 厚木三0二空の運営は、実質、小園安名大佐に託されていた。 小園司令官が、日本側がポツダム宣言を受け入れ本当に降伏 する、という情報を知ったのは 8月11日であったという。翌12日には横須賀の鎮守府( 海軍の統括機関)に参り、上官から 事の次第と、それが真実である事を聞いた。 その場で、三0二空隊は降伏に賛同せず全面抗戦の構えを示す、と 表明して退いた。


   踵を返し、厚木に戻った 小園司令官は 海軍大臣や軍令部総長などに電報を打って、徹底抗戦の意を表明した。 14日には、翌日に玉音放送で正式な敗戦の詔勅が流れることを知って、 厚木にいる隊員を総動員させ檄文を高らかに読み上げる。






    『降伏は国体の破滅である。
海軍上層部、閣僚に必死の信念はもはや無い。天皇の軍隊に敗北は無い! 一度は大詔は渙発され、一旦大東亜戦争は終わるが、再度必ず戦争継続の大詔 を拝する。厚木三0二空隊は、今後いかなる上官の命令をも拒否する。 全員本職に続け!』






    小園司令官が三0二空隊の司令官に就任したのは1944年3月であった。 以前にも、南方戦線において搭乗員、司令官として戦い抜くという 輝かしい実績をもっており、 対B29戦では戦闘機「月光」で背後より接近し襲撃する 夜間戦闘も繰り広げている。いわば、 叩き上げの様な生粋の戦闘パイロットだった。それだけに、生死を共に してきた部下からも信頼が非常に厚く、小園司令官の号令で隊全体が離反 する可能性は十分に現実的な事態であった。更に、そこから 三0二空の残存部隊と討伐隊の全面戦争という、 最悪の事態展開も十分に考えられた。


   これに頭を悩ましたのは 海軍の上層部だった。 15日には 混乱を避ける為、 厚木からの電信翻訳を禁止する命令を下し、夕方には山本栄大佐が武装解除の 説得に 厚木まで駆けつけている。ここでも小園司令官は全く受け付けなかった。 反抗の意を示すかの様に、 16日には厚木側で『国民諸子ニ告グ』という戦争延長と 国民総決起のガリ版ビラを、戦闘機上から飛行場周辺に撒 き散らした。






    『国民諸子ニ告グ    帝國海軍航空隊指令

    赤魔ノ巧妙ナル謀略ニホウロウサレ必勝ノ信念ヲ失イタル重臣閣僚共ガ 上聖明ヲ覆ヒ奉リテ国民ヲ欺瞞愚弄シ遂ニ千古未曾有ノ詔勅ヲ拝スルニ至レリ


    天皇ノ軍人ニ絶対ノ降伏ナシ我等航空隊ノ者ハ絶対ニ必勝ノ確信アリ ポツダム宣言ヲ了服スルコトハ天皇ヲ御滅シ奉ルコトハ大逆無道ノ大不忠ヲ 犯ス事ナリ


    外国ノ軍隊ハ神州ノ進駐シポツダム声明ヲ覆行スルトキハ戦争ヲ継続スルヨリ 何百何千倍ノ苦痛ヲ受クルコト火ヲ見ルヨリ明ナリ


   今ヤ天孫御降臨以来未曾有ノ大修祓ハ行ハルベシカクシテ 国内必勝ノ態勢ハ確(?)ニ整備サルベシ今コソ真ニ一億総決起ノ秋ナリ』






    16日午後3時には第三航空艦隊指令官の寺岡謹平中将が小園指令官を 説得しに厚木に駆けつけた。もちろん、これを拒否した小園指令官は、同日、 三0二空指令官という職を海軍側で罷免されるという経緯を辿る。この 辞令を拒否し、さらに無視を決め込み独自に軍隊を総轄する本事態は明らかに 叛逆罪にあたるものであった。いよいよ、 厚木三0二空隊掃討戦が現実味を帯びてきた。


小園指令官、突然の錯乱

    要人との面会や説得の拒否、飛行場周囲の警護、隊の総轄と 正に寝る間も無く動き廻った小園指令官は、14日から一睡もしていなかった。 18日までは全く元気で血気盛んであったのが確認されたが、結局、 持続した緊張状態から体調を崩し倒れてしまったという。 精神の錯乱を招いたのか、20日には昏睡してうわ言をいったかと思えば、 突然起きて直立し怒号を発するなど、通常常務はとても無理な段階まで悪化していた 。


   もうこうなると決起どころで無い。そのまま21日 早朝には、軍医に鎮静剤を注射され意識朦朧とする状態で 野比の海軍病院に強制移送された。正式にはマラリアの罹患 であると発表されている。


   これで結局、大戦後の反乱軍と討伐軍の国内騒乱、という 最悪の事態と醜聞を避けることは出来た。その後、ほぼ同日21日にはその他の 反乱者の殆どの鎮圧にも成功し、さらに、 厚木飛行場内の 戦闘機の分解と武器の全面破棄を命じ、これを順次つつがなく実施している。



分解破棄された戦闘機


   それでも、敗戦を潔しとしない烈士が決死の覚悟で 戦闘機に搭乗し厚木飛行場を飛び立った。これも8月21日のことである。 小園指令官の意志を継ぐ意図もあっただろうが、 生死を共にした 戦闘機が分解破棄されるのも堪えられなかったのだろう。 分解実施前の僅かな時間の隙間を縫って、上官の必死の制止も聞かず 零戦21機、彗星6機、彩雲3機など総計33機が 厚木飛行場を後にした。その内、1機は編隊を反れ東京湾上空で自爆した。


   残りの編隊は 狭山飛行場に向かっていた。当地の陸軍と共に決起を図るつもりでいた。この頃、 狭山の滑走路は草地であった為、零戦着陸時には車輪が足を捕られ故障 する機体も出たようだ。再浮上が不可能になった愛機と、共闘を見込んでいた陸軍側 との慮外な温度差を感じ、 厚木脱出者のパイロットも、その後、海軍からの説得により 厚木に戻ることを了承し、狂乱の厚木航空隊事件はここで完全に鎮圧された形になった。


   ところで、 小園指令官の発狂についてはもう一つの説がある。15日以降も各種対応に追われて いた氏であったが、そのうち一人の大物民間人が司令室を訪れ 、その徹底抗戦の 意志に 賛同し 小園指令官を大いに 鼓舞したという。この席で、二人は 共に酒を酌み交わした。その後、急激に 体調を崩し精神錯乱に至っている。毒が盛られた、と囁かれている。 海軍で秘かに 口承されている説である。


    当の小園指令官は、退院後、軍法会議にかけられ 無期禁錮刑に処され横浜刑務所に収監された。 それも結局は、1952 年の政令百十七号の大赦令によって同年4月には赦免されている。



マッカーサーを中心に幕僚達



    そもそも、事を急いだ理由は連合軍の進駐が8月28日(雷雨襲来で 2日延びて急遽30日になった)と通達されていたことにある。 日本側としては、そんな短期間に国内の兵力撤退や各種インフラ整備、 宿泊施設の確保を約束する事は到底できない、と意見していた。 しかし、アメリカ側は速やかな進駐を望んでおり強硬路線は変わらなかった。


   連合軍側は、先ず進駐の足がけとなる大型飛行場を「Atsugi」と 定めていた。日本側は調布、立川、福生、入間など提示したが、 本基地が1800mの舗装滑走路と2000mの土砂展圧の大型滑走路を有している事 を 確認しており、厚木がベストであると予め見解は決まっており、他の飛行場に 譲る気配は全く 無かった。この度の小園指令官の反乱が長引けば、実際、期を待てない連合側が 武力行使する可能性は現実として十分あったのだ。



山下公園東口 ホテル・ニューグランド ホテル・ニューグランド ホテル・ニューグランド玄関 ホテル・ニューグランド玄関 説明文




    進駐軍の駐屯地については、横浜と横須賀に絞られていた。この内、 国内は何処も彼処も焼け野原であったが、現状、 戦火を逃れた「ホテル・ニューグランド」が 連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー宿泊施設に相応しいだろうという理由で 横浜に決定した。


   ホテル・ニューグランドは、 「山下公園東口」交差点に建っている現行のホテルである。 マッカーサーの宿泊部屋は、 マッカーサースイートと呼ばれ本館の最高級の部屋として、一般人にも 宿泊が許されている。


   将校の宿舎としては、中区滝之上の住宅がサザランド参謀長に、 同区蓑沢のものはアイケルバーガー中将に宛がわれた。その他、大勢の 3千人あまりの兵の宿舎として選ばれたのが同区北仲通の横浜生糸検査所で、 現在の横浜第二合同庁舎にあたる。 そこでも収容しきれなかった兵は山下公園で露営した。



横浜税関 横浜税関 横浜税関玄関 説明文




   GHQが横浜の本部として使用したのが、 横浜税関ビルである。ホテル・ニューグランドより北西方向に500m程 の距離に在る建物で、マッカーサーの 執務室は南側3階に置かれた。しかし、9月15日には東京の 第一生命ビルを接収し、翌16日に引越した経緯を辿るので、結局2週間程度しか 使用されなかったことになる。



資料展示室 資料展示室 周辺地図



   現在、1階部は 資料展示室として無料で開放されているが、マッカーサー関連の資料は 無かった。




行軍に背を向ける日本憲兵たち

   さて、厚木到着からこの横浜に向かう道中 と順行路の決定についても一悶着あったようだ。 28日に既に先遣隊が厚木飛行場に飛来していた。テンチ大佐率いる 150名程度の小隊である。ここで、厚木から横浜までの 順路について日本側にピックアップを要求した。


    日本側が提示したのは、厚木を出て藤沢街道(R467)を下り東海道(R1) とクロスするので、ここを伝って横浜まで 行く行路だった。対して連合側が 予定していた(事前の航空写真を元に行路を予め検討していた)のは、 現在の相鉄本線に沿って 東に直接向かう行路だった。前者は、道も広く見通しが利き警備上も問題無いが、 多少大回りになる欠点もある。後者は、未舗装の土道であり、曲りくねり見通しも悪かった が、短時間で横浜まで辿り着ける利点もあった。


   日本側は、断然、東海道で大きく廻るコースを勧めた。 というのも、22日以降、厚木飛行場で解体分解された武器兵器を周辺住民が 略奪していた事件が起きていたからだ。雷雨襲来や混乱に乗じて、一般人が 備蓄品を求め乱入。食糧や缶詰を略奪、そして同時に武器弾薬等についても、 序でに失敬していたのだ。


    当時は、現在にみる厳重な金網に囲まれた厚木基地とは全く違う外観であったという。 遮壁は無く、周囲は民家も少ない更地か森林続きであり、誰でも自由に出入りが 可能だった。当時の曖昧な境界は、周辺土地が無番地登録だった事でも明らかだ。


    それでも 当然、戦中は武器管理は厳重に履行していただろう。しかし、今回の厚木騒乱 と突然の終戦宣言の混乱、そして折からの台風 に乗じて、22日からの2〜3日間、 多数の民間人が乱入略奪したという「事実」があった。 リヤカーやトラックで駆けつけた者もあったという。 そんな武装した輩が、行軍に向け凶行に及ぶ可能性が全く無い訳でもない。 たった1発の銃声でも許されない、超厳戒態勢を必要としていた。と、いう訳で 日本側としては多少の廻り道でも、警備上の安全が望める東海道大回りコース を推していた。これは、さらに 大型トラックでも運転が容易な 直線路である利点も備えている。何よりも、 不審者を即座に検知できることの地理的要素が大きい。 対して、連合側でも逸早く横浜に到着したいという意図からか 、執拗に自分達の作成した順路に拘ったという。コチラも武装しているので、 警備は問題ないと豪語する。 この28日の会談では、両国で激しいやり取りが繰り広げられたようである。


    戦争終了した今日に無益な戦闘は 何としても避けたい日本側としては、安全を優先した本路をしつこく推し、それは 殆ど日本側の懇願のような状態の話し合いだったという。 テンチ側も日本側の考えに了承して、いったん厚木飛行場を後にした。結局、 当日30日は、厚木街道を出てから藤沢街道に折れ南下し、長後街道に入って から東海道を 伝うというルートが取られた。安全第一である。 幸いに局地戦闘は起きなかったが、いずれも未舗装の 悪路であったため日本側の用意したボロ車が 何台かパンクしたようである。


   当時の新聞の情報では、車25台、トラック10台と、 マッカーサーには阿南陸軍大臣が以前使用していたリンカーンが用意されたという。 これに、日本側の引導車として先頭車両に消防車、その次に先駆車が用意され、 これには 警察関係者が乗っていた。後尾は日本側の用意した数台の随行車が続き、総長は750m に及ぶ大行列であったという。


   この時、 厚木街道周辺の両脇には警察官が警護にあたり、藤沢街道から南下する 長後までの両脇は陸軍憲兵が警護にあたっていた。いづれも直立不動の 姿で、どの人間もこの軍列に背を向け、誰一人として米軍兵に目を合わそうとさえ しなかった。NHKのドキュメンタリー 映像でも出てきた有名シーンで、「生きて虜囚の辱めを受けず」 と最期まで抵抗して見せた当時の日本男児の意地と気概を体現した 心打つシーンだと、私事、合点していたが、実際はチョッと趣は違ったようだ。



背を向ける憲兵 背を向ける憲兵


   行軍の出発は、早くもマッカーサー厚木到着の15分後 には始まったという。意外にあっさりと開始された感にみえたが、 出発すると間もなく先頭を走る先駆車に 連合軍側の将校2人が荒々しく同乗してきた。怒鳴りながら警察関係者に 吼えるのだ。





『あいつら銃を持っているじゃないか!turningさせろ!』





   両脇に並んでいた警護兵は、当初、行軍の方向を 向いて立哨していた。しかし、藤沢街道沿いの 憲兵が物々しく銃剣を抱えているのを見て、危険を察知した 連合軍側が先頭車両の日本人に警備兵の方向転換を促したというのだ。この後、さらに 本格的に行軍が行進すれば 後続のトラックには 鉄甲と戦闘服に武装しカービン銃を携えた1200人もの兵士が待っている。 事と次第によっては、不測の事態も招きかねない。 チョッとした誤解(日本側に戦意は全く無くても) から、戦闘が開始される可能性も無いとは言えない。そんな一触即発の危険な 雰囲気も醸成されていた のだろう。 訴える将校の表情は必死であった。


    ここで、気転を利かせた警察関係者は『回れ〜右!』と大声で号令し、兵の向く方向を 変えさせた。結果、そのまま横浜 までの道中30kmを大声で叫び続ける作業を強いられる事になってしまったという。


   街道沿道にも民家や商店街があった。 これらには、事前に外出禁止の令が下り善良な市民達はこの日、 防空壕などに隠れていたという 。また、婦女子は疎開させたという家庭の例もあった。 商店は当然、戸を堅く閉めており、 ほとんどゴーストタウンのような不気味な静けが辺りを包んでいた。 電車は全線運休で遮断機は揚げられたまま固定されている。 行列の行く先はトラックのエンジン音だけ が響く音しか聞こえなかったという。 この日、秦野の観測所では気温31℃を記録していた。 炎天下の下、土煙を濛々と上げた750mの列は黙々と進行していた。 その後、東海道から横浜市内に入り、無事に 全てが終った。1945年8月30日の長い1日は終わった。


GHQ接収物件

    思いのほか、日本の治安が安定している事に満足した GHQ側は早くも活動の拠点を東京に移すことに決めた。 9月15日には東京千代田区の第一生命ビル(現、DNタワー21) を接収し、16日には 横浜税関からの引越しを済ませている。



第一生命ビル 第一生命ビル 説明文 周辺地図


   第一生命ビルは皇居のお堀を挟んだ対面に位置し、 戦中は屋上に4機の対空高射砲が備えられていた。 皇居防衛の最終ラインの砦であった。


    マッカサーの執務室は6階の社長室が使用された。 現在は、「マッカーサー記念室」として彼の使用した机と椅子が保存されている。 一般にも公開されているが、開催 日時は不定期であり参加には予約が必要である。運営側に 電話で概要をお聞きしたところ、





『ああ、何かの記念日に合わせないと一般公開は無いよ。
むこう4〜5年はやらないんじゃないかな・・・』





    とのこと。 近年は2012年に一般公開されたのが最後である。 見せてくれと、しつこく喰い下がったが無理だった。





『記念館といっても、部屋の片隅に机と椅子が置いてある程度ですよ。
チョッとした資料なら、1階に社の沿革表やマッカーサー関係の
写真もあるから参考になるんじゃないかな』





   こちらは何時でも無料で閲覧可能である。文献によれば マッカーサー執務室は広さ54u(16坪)ほどで、引き出しの無い机と 椅子が並べてある簡素な構成であり、 即決即断主義のマッカーサーは大変この部屋が 気に入っていたという。額縁立てかけの絵画は、 好きだったヨット絵柄である。



昭和13年の第一生命ビル 昭和21年元旦の第一生命ビル 昭和22年の第一生命ビル マッカーサーの執務室





   マッカーサーの東京での宿舎はアメリカ大使館であった。 日常の勤務は、11時に大使館を発ち 第一生命ビルで執務をこなし、14時に昼食を済ませる為にいったん 大使館に戻る。そして、16時に再度、第一生命ビルに赴き20時まで 執務にあたるというサイクルを繰り返した。食後の昼寝はマニラ時代からの慣習 であった。


    マッカーサーは日本国内を旅行するも無くプレス関係者にも滅多に姿を見せなかった。 GHQの職員ですら、限られた側近以外は目にする機会は無かったという。 これは、日本の天皇の神秘性と、そこから生まれる カリスマ性を学んだことにあると言われている。


   マッカーサーが日本を訪れたのは、45年が初めて ではない。1903年の長崎を皮切りに、駐日大使だった父親 の副官として、新婚旅行の寄り道として、など計5回の来日を果たしていた。 この内、1906年には 東郷平八郎や乃木希典など、日露戦争を勝利に導いた 司令官達と面会を果たしている。 ここで、彼らの天皇に対する信仰と、信念たる「武士道」というもの に触れた。 ほとんどの日本人が天皇を見る機会が無かった時代、現人神 として崇められていた天皇のカリスマと統率力に 強い衝撃を受けたという。


   このため 45年の厚木到着時にはこれに倣い、天皇、首相、両院議員しか面会はしないと 宣言している。ただ、日本に対する民主化や財閥解体、農地改革、 教育改革など、その政策内容は日本躍進に多大な恩恵を与える 大変に意義のあるものだった。 当時からマッカーサーのもとには感謝状が 年間1万通近く届いている 。多くは滞りない物資供給に対する謝辞を述べた内容であった。 また、 日本政府への更なる改善の要求なども含まれていた。



マッカーサーへの感謝状 1951年4月16日


    早急な日本の改革には彼の思惑があった。確実な 実績を重ね、 アメリカ大統領選に出馬するつもりだったらしい。その為に 策を急いでいたのだといわれている。 しかしそれも叶わず、さらに 朝鮮戦争の動向をめぐり当時のトルーマン大統領と対立し、 1951年4月11日には 連合軍最高司令官という職を 解任される。そして、急かされる様に16日には 羽田から帰国した。


    第一生命ビル自体は、その後、翌年の1952年まで使用されたが、 市ヶ谷にGHQ本部が移転するのを機に同年7月7日に 返還されている。実に 6年10ヶ月 に及ぶ長き期間の接収であった。



和光ビル 和光ビル 周辺地図




    PX(Post Exchanhe)は将兵専用の売店のことで、 日本橋の白木屋、銀座の松屋、そして服部時計店などが接収された。 中でも、服部時計店はその中でも最大規模で 目抜き通り銀座四丁目の交差点にあるビル(現在の和光ビル) であり、現在でも多くの日本人で溢れかえっている。この界隈も、 当時のPX時代には、従業員以外の日本人の立ち入りは許されていなかった。 取引は $決算のみで 雑貨の他、散髪屋、クリーニング、託児所なども併設されていた。


    東京の焼け野原に、これら主要ビルや国会議事堂等が滑稽なほど無傷の状態で残っていたのは 、アメリカが戦後に接収するため、 空襲時に故意的に爆弾投下を避けたため だといわれている。





基地と騒音問題

   戦闘機の発する爆音は、厚木(実際の基地所在地は綾瀬市) はもとより大和市、海老名市、座間市、藤沢市、相模原市など周辺地区の 住民にとっては凶器以外の何物でもない。


    この騒音に対し、周辺住民が一致団結して抗議団体を興したのが、 『厚木基地爆音防止期成同盟』である。通称、爆同と呼ばれ1960年に 結成されている。主な行動はデモであったが、活動二期には実力行使として 基地滑走路北側で櫓を建設し、タイヤを焼くなどの抗議活動も行っている。 これにより、1969年には飛行協定を勝ち取るに至っている。


   しかし、1982年より始まったNLP(Night Landing Practice) が周辺住民に更なる騒音地獄を招いた。これは、『夜間連続離発着訓練』 と呼ばれ、わざわざ夕刻から夜間にかけて実施する訓練である。空母の甲板に見立てた 滑走路上を、地上の誘導灯頼りに着陸〜再浮上(タッチ・アンド・ゴー) する、という訓練で 戦闘機1機あたり周回に要す時間が3〜6分程度、これを2機同時 飛行で3回繰り返すという。


    厚木基地の場合は、17〜22時と訓練実施時間が決まっており、 告知もあるが爆音は半端では無い。 近年は、住民の反対が大きくNLPに関しては硫黄島に訓練拠点 を移させ、さらに2003年には、運営側の厚木基地でのNLP訓練を完全 に中止する旨を宣言させるに至っている 。しかし、硫黄島の天候不順が重なると、急遽、厚木基地内で 訓練を告知無しに突然実施することがあり、現在、 基地周辺住民の反感を買う要素の一つ になっている。


   当然、苦情(同盟以外の一般住民から)もNLP時は、 うなぎ登りに増加する。人口数に差異があり比率比較にならないが年間の苦情件数は、 大和市が最も多く、次いで相模原、綾瀬市と続く。NLP自体は硫黄島へ活動の拠点を 移したため、総括された年間の 苦情件数は年々減少傾向にはある。が、横須賀に空母 が寄港する期間は、日中も断続的に艦載機の騒音は続くので一定数の苦情数は 常時存在しているのが現状である。 近年の平成年度別推移表は以下の通り、(対象地区は、綾瀬市、大和市、藤沢市、 相模原市、海老名市、座間市、横浜市、茅ヶ崎市、町田市の9市)



NLP 厚木基地周辺の苦情件数




   それ以上に、空からの凶器の実害として上げられるのが戦闘機の 墜落である。実は、 機体墜落という重大事例以外にも タンクを落とすなど軽い事例を含むと、厚木基地の航空機関連では 毎年のように不祥事を起こしている。 神奈川県内の主な米軍墜落事故は次の通り、





1958年8月     ジェット機       横浜市神奈川区   

1961年1月     ジェット機       厚木基地内

1961年4月     F4D           藤沢市高倉

1961年11月     A4D             横浜市戸塚区

1964年9月         F8U           大和市上草柳

1965年5月        F105            相模原市上鶴間

1977年9月        RF4B                横浜市青葉区





   この内、64年には厚木基地を離陸したF-8Uが大和市に墜落し 鉄工所従業員や民家を含む5名を死亡させる事故をおこしている。77年にはRF-4Bが横浜市 青葉区に墜落し、乳飲み子2人の死亡と、負傷した母親が結果的に 4年後に亡くなるという悲劇も引き起こした。


    近年は重大な死亡墜落事故は起こしていないが、 戦闘機の走行路では基地との連絡に使われる強感度電波 のため、テレビやラジオの受信障害を引き 起こしたり、タンク落下や爆風による農作物のなぎ倒しからくる産業被害も 報告されている。 その他、低空飛行訓練では衝撃派により蛍光灯や薄ガラスが 割れるなどの被害を出すこともある。


    神奈川という巨大延べ地区の中で 肥大化した都市と住宅街に囲まれた「厚木基地」は、極東の軍事基地の要となる 位置付けに在る中、周辺住民との軋轢のなかで 解決せすべき課題はまだまだ山積に有ると言える。





スプリングフェスティバル2014

   今年も余裕の門前2時間待ちでした。 正門から溢れた入場希望者 の行列が、外フェンスを伝い光綾公園でUターンの折り返し状二重列を形成 していました。



行列 光綾公園 光綾公園



   特に最後尾辺りに 看板や誘導員等も居ないところをみると、一般人 行列側で 自主的にUターン列を作ったのだと思われます。もはや『入場までが 一つのイベント化』している現状、運営側でも警備員などを配置して 列を乱さない工夫や行列者の健康管理等を見守る 必要が出始めている時期ではないかと思いました。



厚木基地スプリングフェスティバル2014 イベント案内 イベント案内


   はまにゃんです。



はまにゃん はまにゃん


厚木基地  スプリングフェスティバル2014



   今年も非常に天気が良好で、 初夏の陽気から頭フラフラ状態になってしまいました。 ちなみに、私は15:00頃に正門から退場しましたが、 この時間になると行列も消失しているので待たずに入場 できるようです。



厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014 厚木基地スプリングフェスティバル2014




独立記念祭2014



厚木基地独立記念祭2014 厚木基地独立記念祭2014


   夏祭りに初入場してみました。開門14:00で、15:00くらいに 行ってみましたが、スプリングフェスティバル恒例の門前行列は全く無く、 待ち時間0分で直ぐ入場できました。ちなみに、夏祭りも 身分証明と持ち物チェックは必要になります。



盆踊り会場 盆踊り会場 盆踊り会場


   メインイベントが『盆踊り』であり、 日が暮れてからが本番ということで、来場者は未だ疎らな状態でした。 本日は8月真っ只中の16日でしたが、反して天候が悪く、以降の時間帯に急な雨が降りそうだったので早々に 引き上げて帰ってきました。



滑走路へ続くHalsey Aveは閉鎖 厚木基地独立記念祭2014 案内版


   メイン会場 のフットボール広場から滑走路エリアへと続くHalsey Aveは 閉鎖され、それ以上は進行できません。およそ、移動できる範囲は 春の1/3程度といった所でしょうか。それでも、露天や小児用アトラクションが 展開され、そこそこ活気はあります。浴衣を来た外人も多く目にしました。



厚木基地独立記念祭2014 厚木基地独立記念祭2014 厚木基地独立記念祭2014




スプリングフェスティバル2015




スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015


   マーベリックミサイル



マーベリックミサイル マーベリックミサイル マーベリックミサイル


   偵察用オートバイ



偵察用オートバイ 偵察用オートバイ 偵察用オートバイ


   ミニP-3Cショー



ミニP-3C ミニP-3C


厚木基地  スプリングフェスティバル2015



   着ぐるみ軍団



はまにゃん ゴールディー 一緒に写真撮れる


   今年も晴天に恵まれ、大盛況だったようです。



スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015 スプリングフェスティバル2015




スプリングフェスティバル2016




スプリングフェスティバル2016 スプリングフェスティバル2016 スプリングフェスティバル2016


    世の中、便利になったものでTwitter(ツイッター )の登場により、門前行列 の状況をリアルタイムで知ることが出来るようになりました。 刻一刻と変わる状況を提供者の情報から判断し、 今年は13:00頃、門前に到着しましたところ幸運にも 待ち時間3分で入場できました。





(厚木基地)       (ツイッター)





   当日は上記ワードで検索してみてください。混雑具合が リアルタイムで判ります。総じて、午後になればすんなり入れるみたいです。



スプリングフェスティバル2016 U.S.AIR FORCE


厚木基地  スプリングフェスティバル2016



   今年も晴天に恵まれ、大盛況だったようです。



スプリングフェスティバル2016 スプリングフェスティバル2016 スプリングフェスティバル2016 スプリングフェスティバル2016 スプリングフェスティバル2016 スプリングフェスティバル2016 喫煙所もある 厚木基地は日本国内のアメリカ 厚木基地は日本国内のアメリカ 厚木基地は日本国内のアメリカ スプリングフェスティバル2016 スプリングフェスティバル2016 スプリングフェスティバル2016 スプリングフェスティバル2016 スプリングフェスティバル2016 スプリングフェスティバル2016 スプリングフェスティバル2016 スプリングフェスティバル2016




スプリングフェスティバル2017




スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017


   今年は、北朝鮮有事の真っ只中の期間に開催された こともあり、門前のセキュリティチェックが例年より強化され、基地内入場に余計に時間が 掛かったようです。



海老名市のゆるキャラ スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017


厚木基地  スプリングフェスティバル2017



   今年も晴天に恵まれ、大盛況だったようです。



スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017 スプリングフェスティバル2017



トップ